キハ28 2 → キハ28 2002



JRへ継承された中で最も若番のキハ28で、更に最も製造年月日の古いキハ58系である。

1961年5月16日東急車両製の1-1次車で、昭和35年度債務で広島機関区に新製配置された。同一ロット1・2両車とも広島へ配置された。広島では急行「宮島」等、山陽本線の急行列車で使用開始した。1962年には一時期名古屋に転出した記録があるが、詳細は不明である。山陽本線の全線電化後は九州へ乗り入れる急行「青島」で活躍したが、日豊本線内勾配区間が多く、1965年にキハ58が増備されると1エンジンのキハ28他区へ転出することになり、1965年10月1日付で長崎へ転出した。長崎では急行「いなさ・弓張」等、長崎本線系統の急行列車で使用されるようになった。その後「ヨンサントオ改正」に伴う車両転配で移動となり、1968年9月30日付で小郡へ転出した。小郡では急行「あさぎり」「さんべ」等、山陰西部から北九州へ乗り入れる急行で使用される。その後1972年に広島からキハ28 36が転入し当車は玉突きで1972年2月13日付で高松へ転出した。高松転出後は四国では晩年の1972年10月14日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2002へ改番された。その後は主に平坦な徳島方面の急行で使用され、1973年以降手狭になってきた高松運転所の高徳本線運用が徳島気動車区へ移管され、当車も同年度中へ徳島へ転出した。以降は比較的平坦な徳島地区の急行列車で使用され、国鉄末期の急行削減、高松からの余剰キハ65転入後も生き残り、そのままJR四国へ継承された。JR化後は1989年1月26日付で四国色へ変更され、同年1989年3月改正で急行が大幅削減された後は普通列車で主に使用されるようになり、1990年11月14日付で近郊化改造された。1993年には大半のキハ28は高知へ集められるようになり、当車は1993年3月14日付で高知へ転出した。高知では土讃本線の普通列車でJR四国のキハ58系末期まで使用された。そして2006年以降キハ58系置き換えのため1500形が投入されると1000形が高知へ転入しはじめ、玉突きで当車は余剰となり2008年3月31日付で廃車となった。廃車後はしばらく多度津工場で保管されていたが、残念ながら2018年6月頃に解体され、現存しない。

前面は、JRへ継承されたキハ58系では珍しく前面補強がされていない。ワイパーは、WP50に改造されているが、正面窓下の手すりは原形のままで、多度津工場標準の形態である。制御用ジャンパ受栓は、左右離れた位置へ移設されており、四国では珍しい形態である。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横に台座付きで設置されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式カバーである。テールライトも原形の内ばめ式のままである。正面窓上の水切り・通風口とも撤去されており、2000年以降の四国標準形態である。正面ステップは1-2次車までの特徴であるタイフォン上部へ設置されている。
側面は便洗面所が撤去された際に、臭気抜き窓が撤去されている。便洗面所窓ガラスも透明のものに交換されている。運転席側窓バランサー点検蓋は後付け改造され、更に四国標準の、台枠に近い部分に横長の弁類点検蓋の開口部が設けられている。乗降扉の点検蓋は、後期車と同じ横長のものに改造されており、四国の標準形態である。当車は国鉄末期まで徳島配置であり汚物処理装置を取り付けないまま近郊化改造されたため、当然便所部側面にも点検蓋は付いていない。
屋根上は通風器がすべて撤去されているのは2000年以降の四国共通の標準仕様である。
床下は、台車がグレーで塗装されており、1990年代後半以降のJR四国標準である。便所撤去されているが、床下の水タンクはそのままである。5次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、助手席下部へ設置されている。
妻面は、四国近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。これは、デッキ撤去に伴い、車内外を仕切る扉が無くなったための代替措置であった。


1997年頃の姿


↑1997年頃はまだ屋根上の通風器が残っていた。



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