キハ28 5 → キハ28 2005



1961年5月24日東急車両製の1-1次車で、昭和35年度債務で米子機関区に新製配置された。同一ロット3〜6のうち、4〜6が米子へ配置された。米子では急行「だいせん」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍した。需給の関係で1963年度中ごろに梅小路へ転属した。梅小路では山陰本線京都口の他京都発着の紀伊半島方面の急行で使用された。1968年には梅小路へモデルチェンジ車が投入されることから転属することになり、まず北海道の夏季輸送で使用するため1968年6月10日付で札幌へ転属し、夏季輸送終了後の9月14日付で尻内へ転属した。尻内では八戸線へ乗り入れる急行で主に使用されたが、1970年10月改正で需給の関係から9月29日付で新潟へ転属した。新潟では急行「越後」「羽越」「よねやま」等で活躍したが期間は短く、1971年ダイヤ改正で新潟担当の急行「越後」が長野担当となることから余剰が発生し、当車は千葉の夏季輸送で使用することになり1971年7月6日付で千葉へ転属したのちに8月29日付で新潟へ戻ったものの、10月2日付で金沢へ転属した。金沢では急行「ゆのくに」の他、急行「大社」の金沢編成で使用された。当車は非冷房車のままであったが、1972年度末には七尾との間で冷房車の交換があり、当車は同年度末で七尾へ転属した。七尾では当時キハ58系は少数であったが、キハ55系に混じり急行「能登路」で活躍した。その後1974年4月3日付で冷房化及び4VK発電ユニット搭載改造が行われ、2005へ改番された。七尾では当時唯一の冷房車で、キハ58の冷房車も存在しないことから単独で使用された。1978年10月改正では冷房車が大量に転入し、更に残存していた非冷房車の冷房化も進んだことから、これらと共に引き続き急行「能登路」で活躍した。しかし当車は1985年7月11日大雨による築堤崩壊箇所に突っ込むという脱線転覆事故に巻き込まれ、1985年10月1日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。テールライトは運転席側のみ外ばめ式に改造されており、金沢地区のみで見られた形態である。タイフォンカバーはスリット式であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。ステップは1次車原形の、タイフォン上部に設置されている。放送用ジャンパ受栓は、タイフォン横に台座付きで設置されている。
側面はほぼ原形であるが、3位側側面に、4VK発電セット用の吸気口が設置されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下機器は、ほぼ4VK搭載車の標準形態である。5次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、1位側乗務員室床下へ設置されている。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。当車は金沢時代の急行「ゆのくに」の名残でスノープロウを設置している。


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