キハ28 9 → キハ28 2009



1961年6月8日東急車両製の1-1次車で、昭和35年度債務で広島機関区に新製配置された。同一ロット7〜10全車が広島へ配置された。広島では急行「宮島」等、山陽本線の急行列車で使用開始した。山陽本線の全線電化後は九州へ乗り入れる急行「青島」で活躍したが、日豊本線内勾配区間が多く、1965年にキハ58が増備されると1エンジンのキハ28他区へ転出することになり、1965年9月30日付で長崎へ転出した。長崎では急行「いなさ・弓張」等、長崎本線系統の急行列車で使用されるようになった。しかし当車の長崎での活躍は短く1965年度中に鹿児島へ転属している。鹿児島では急行「フェニックス」「青島」といった鹿児島本線・日豊本線の幹線急行で活躍したが、後期車の増備により捻出され、1967年10月改正で金沢へ転属した。金沢では急行「あさしお(後の大社)」「ゆのくに」等で活躍したが長続きせず、1968年上期に北海道夏季輸送のため釧路へ転属し、夏季輸送終了後の9月5日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で使用されたが、キハ65の増備に伴い捻出され、1970年6月24日付で千葉へ転属した。千葉ではキハ26を置き換え房総地区の急行で活躍し、1971年5月19日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2009へ改番された。しかし千葉での活躍も長くなく、1972年7月の外房線・内房線全線電化の際に捻出され、当車は1972年7月21日付で高松へ転属した。前述の通り四国ではキハ65の投入が行われていたことから、キハ28はキハ26を置き換え比較的平坦な徳島地区で活躍した。1973年には高松運転所が手狭になったことから徳島地区の運用が徳島区へ移管されることになり、大半のキハ28が徳島へ転出した。以降は主に急行「阿波」「むろと」「よしの川」で活躍した。しかし国鉄最後の「61-11改正」でキハ185系投入により四国内の急行列車が大幅削減されるとキハ65が徳島へ転入し当車は玉突きで余剰となり、JRへ継承されず1986年12月22日付で廃車された。

前面は、多度津工場で四国タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等も、四国標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは原形の内ばめ式のままである。当車は千葉配置時代の名残で千葉ヘッドマークステイを貫通扉に残している。
側面はほぼ原形であるが、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下は、後位側に4VK発電セットが搭載されている。5次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、1位側助手席下部へ設置されている。


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