キハ28 18 → キハ28 2018



1961年12月7日新潟鐵工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で和歌山機関区に新製配置された。同一ロット18〜21のうち、18〜20が和歌山へ配置された。和歌山では急行「きのくに」をはじめ紀勢本線の急行列車で使用されたが、1963年に和歌山へ長大編成用の300番台が大量新製されると0番台車は他区へ転出し、当車は1963年9月15日付で千葉へ転出した。千葉では房総半島各線の急行列車で活躍したが、1969年7月の内房線千倉電化で捻出され、1969年9月1日付で人吉へ転属した。人吉では急行「くまがわ」で使用され、1970年2月28日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2018へ改番された。その後も急行「くまがわ」用として長く活躍し、国鉄末期には他区から後期車が転入したり、編成短縮により人吉区の若番車は軒並み淘汰されたが当車は幸運にも生き残り、そのままJR九州へ継承された。JR化後も引き続き急行「くまがわ」で活躍したが、1988年には人吉区が廃止され熊本に統合され、当車も1988年3月13日付で熊本へ転属した。以降は急行「えびの」「くまがわ」は共通で運用されることになりキハ65も組み込まれ、キハ28が編成中に入ることは少なくなった。そのため1988年12月6日には九州色に塗装変更された。1990年には各所間で車両交換があり、1990年2月14日付で鹿児島へ転属し、指宿枕崎線や肥薩線で活躍するようになった。1994年より霧島鉄道事業部が開設され、肥薩線・吉都線の運用が分離され更にワンマン化されることから、1993年8月2日付で近郊化改造及びワンマン化改造を施工し、霧島鉄道事業部所属となった。以降長く肥薩・吉都線で活躍したが、2001年10月に筑豊本線・篠栗線が電化された際に大幅な車両転配が行われた際に余剰となり、2002年3月22日付で廃車となった。

前面は、九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが若干下に移動しているのは九州では標準形。ステップの位置や制御用KE53ジャンパ受栓の位置等は、九州標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、小倉工場で多く見られる、タイフォン上部へ移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット式カバーである。正面窓上の雨どいが撤去されており、鹿児島地区の標準スタイルであるが、通風口は残っている。また、鹿児島地区では降灰の関係上デフロスタを装備している。鹿児島地区標準のフック式のヘッドマークステイが貫通扉に取り付けられている。
側面は、近郊化改造が施工されているので、洗面所が撤去されており、当該箇所の臭気抜き窓がなくなっている。当車は乗降扉戸袋点検蓋が後期車に準じた大型のものに更新されている。3位側側面に、4VK発電セット用の吸気口が設置されている。
屋根上は、全ての通風器が撤去されており、晩年の九州の特徴である。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。2000番台であり4VK発電セットを取り付けている。水タンクは、新型のFRP製のものに交換されている。台車には砂まき装置が取り付けられている。
妻面は、近郊改造時期から貫通扉が取り付けられず下降窓もそのままと思われるが資料が無いため不明である。


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