キハ28 21 → キハ28 2021



1961年12月7日新潟鐵工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で盛岡機関区に新製配置された。同一ロット18〜21のうち、当車のみ盛岡へ配置された。盛岡へは初のキハ58系配置となり、急行「陸中」など東北本線の急行で使用を開始した。しかし長大編成対応車の増備により初期車は捻出され、1964年度には各地を転々としまず年度初めに青森へ転出したのち、1964年5月度には新潟へ転出、そして房総半島の夏季海水浴臨時列車に使用するため7月9日付で千葉へ転出し、夏季輸送終了後の9月1日には新潟へ戻るも9月25日には金沢へ転出し、最後は11月28日付で梅小路へ転出した。梅小路では京都発着の紀伊半島方面の急行を中心に活躍したが、1968年にモデルチェンジ車が増備されると捻出され、北海道の夏季輸送で使用するため4月24日付で札幌運転所へ転出し、夏季輸送終了後の9月17日付で尻内(八戸)へ転出した。尻内では急行「なつどまり」等、八戸線・大湊線の急行を中心に活躍した。しかし1970年に尻内の運用は縮小され、当車は1970年10月1日付で美濃太田へ転出した。美濃太田では高山本線の急行「のりくら」をはじめ、名古屋を起点とする急行で活躍した。1972年8月11日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ2021へ改番された。以降も長らく美濃太田で活躍したが、「53-10改正」で中央本線の急行が大幅に廃止されこれに伴い中部地区のキハ58系に大きな動きが発生し、当車は1978年10月6日付で七尾へ転出した。七尾ではキハ55系や非冷房キハ58系に代わり急行「能登路」で活躍を開始した。1980年には七尾へ各地から冷房車が転入すると当車は非冷房車の残っていた敦賀へ転出することになり、1980年10月15日付で転属した。敦賀では小浜線の急行「丹後」「わかさ」「はしだて」の他小浜線の普通列車で活躍するようになった。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後も引き続き小浜線で活躍し、普通列車専用車は近郊化及び塗装変更され小浜鉄道部所属となったが当車は急行色・ボックスシートのまま敦賀運転所配置で急行「わかさ」「丹後」で長く活躍した。1996年の急行「丹後」廃止後は急行「わかさ」のみの運用となった。しかし1999年10月の舞鶴線電化により特急「まいづる」が設定されると当列車は廃止となり、2000年3月31日付で廃車となった。

前面は、金沢時代に前面補強されているが、補強板の縁は平滑に仕上げられており分かりづらい。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部に寄り添う位置へ移設されている。放送用ジャンパは後期車のようにステップ一体型に改造されている。テールライトは左右ともに外ばめ式に改造されている。タイフォンはスリット式のままである。正面窓上の水切り・通風口ともに撤去されている。
側面は、前面窓から延びる水切りが撤去されているが、乗務員室側窓上部にコの字形の水切りが追設されている。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられ、蓋が溶接で止められている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下機器は、ほぼ4VK搭載車の標準形態である。水タンクは新型のFRP製に交換されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、確認できる資料では見当たらない。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。晩年の金沢地区の標準で、床下機器が台車を含め全てグレーで塗装されている。


1987年頃

↑JR化直後の1987年頃の姿。基本的には末期とあまり変わっていないが、台車等は黒色塗装、Hゴムは灰色のものでかなり印象が異なる。装備面では、乗降ドアは初期車にもかかわらず下部に丸窓付き、床下の水タンクは原形となっているのが晩年との大きな変化点である。尾灯はこの時点で既に外バメ式になっている。



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