キハ28 27 → キハ28 2027



1961年12月20日新潟鐵工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で長崎機関区に新製配置された。同一ロット26〜29のうち、27・28が長崎へ配置された。長崎では急行「いなさ」「弓張」等の長崎本線系統の急行で使用された。1965年度には日田彦山線系統の急行で使用すべく直方へ転属したが、山陽新幹線岡山開業に伴う「72-3改正」では直方の修学旅行用気動車の運用機会が減り、修学旅行用車が日田彦山線系統の急行にも使用されるようになったため、当車は1972年3月改正で長崎へ戻った。長崎では転出直後の1972年3月10日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ2027へ改番された。以降再び長崎本線系統の急行を中心に活躍したが、山陽新幹線博多開業に伴う「50-3改正」で九州内の気動車急行は大幅見直しされ、これに伴う車両転配で当車は1975年3月10日付で都城へ転出した。都城では急行「えびの」を中心に活躍した。日豊本線電化後の「55-10改正」では南九州の急行が大幅削減され、この際の車両転配で九州内で余剰となり、1980年10月4日付で七尾へ転出した。七尾では非冷房キハ58系やキハ55系を置き換え七尾線の急行「能登路」や普通列車で活躍した。そしてその状態は国鉄末期まで続き、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は1988年の能登線廃止により七尾のキハ58系には余剰が出ており、当車は山陰本線京都口の客車列車を気動車化する際に活用されることになり、1988年9月10日付で福知山へ転出した。この当時七尾にいた車両のうち、若番車や非冷房車が主に転出した。しかし1990年3月には山陰本線の園部までの電化が完成し、同区間用のキハ58系は早くも余剰となり大半が客車列車の置き換えで米子へ転出するかそのまま廃車となったが、当車は山陰本線の園部〜福知山線の普通列車運用がワンマンキハ58系化されるのに伴いキハ28 3000番台5両が普通列車専用とされ急行用のキハ28が不足したため、福知山に残留し急行「丹後」用となった。国鉄末期には福知山では当時大量に配置されていた0番台車を他区からの転入車や運用減により大量に廃車にしていたが、結局再び若番車が転入・残留するというのは皮肉な転配であった。以降急行「丹後」で活躍したが、1992年頃より急行指定席車のアコモ改造や編成の見直しにより余剰となり、1993年12月10日に廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーはWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置に設置されており、九州時代の名残を残している。放送用ジャンパはステップ下部に設置されている。テールライトは原形の内ばめ式のままである。タイフォンは原形のスリット式カバーであるが、助手席側に傘状のカバーが設置されている。正面窓上の通風口は残存しているが、水切りは撤去されている。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられ、蓋が溶接で止められている。当車は5次車以降に準じ、乗降扉下部隅に丸窓が設置改造されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下機器は、ほぼ4VK搭載車の標準形態である。水タンクは原形の鋼製タンクのままである。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、1位側乗務員室床下へ設置されている。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る