キハ28 29 → キハ28 2029



1961年12月20日新潟鐵工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で竹下気動車区に新製配置された。同一ロット26〜29のうち、26・29が竹下へ配置された。竹下では長崎本線系統の急行の基本編成を中心に、各地へ向かう急行の付属編成等で広く活躍を開始した。1962年10月には大分へ転出し、日豊本線や久大本線の急行で活躍するようになる。1966年度には需給の関係で再び竹下へ戻るものの、翌1967年10月には美濃太田へ転出し、高山本線をはじめとして名古屋を起点とする急行で活躍するようになった。しかし翌1968年には再び移動することとなり、1968年7月12日付で房総地区海水浴臨時列車に使用するため一旦千葉へ転出したのち、9月1日付で高松へ転出した。高松では四国全域の急行で使用されたが、同区へのキハ65投入が始まると1エンジンのキハ28は真っ先に捻出され、房総地区で急行で使用していたキハ26を置き換えるため1970年6月29日付で千葉へ転出した。千葉では房総各線の急行列車で使用され、1972年度には発電ユニットを搭載しない冷房化改造が施工された。1974年10月には総武本線の全線電化が完成しこれを受け「50-3改正」で千葉地区の急行は全廃され、当車は1975年3月16日付で金沢へ転出した。金沢では急行「越後」「ちくま」「大社」等で使用されたが同区の急行は幹線急行が多く冷房化が進んでいたため、冷房用発電セットを装備しない当車は使いづらく、1975年6月7日付で七尾へ転出した。七尾ではキハ26に代わり七尾線の急行「能登路」を中心に活躍するようになったが、非冷房車と同等の扱いであった。「53-10改正」では七尾へも冷房キハ58系が大量に転入し非冷房車は他区へ転出するという動きが発生し冷房化率がアップしたため、当車も1979年10月1日付で4VK発電ユニットの搭載を行い2029へ改番された。2029へ改造後は他の冷房車と共通で急行「能登路」や七尾線・能登線の普通列車で使用され、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は1988年の能登線廃止により七尾のキハ58系には余剰が出ており、当車は山陰本線京都口の客車列車を気動車化する際に活用されることになり、1988年9月10日付で福知山へ転出した。この当時七尾にいた車両のうち、若番車や非冷房車が主に転出した。しかし1990年3月には山陰本線の園部までの電化が完成し、同区間用のキハ58系は早くも余剰となり大半が客車列車の置き換えで米子へ転出するかそのまま廃車となったが、当車は山陰本線の園部〜福知山線の普通列車運用がワンマンキハ58系化されるのに伴いキハ28 3000番台5両が普通列車専用とされ急行用のキハ28が不足したため、福知山に残留し急行「丹後」用となった。国鉄末期には福知山では当時大量に配置されていた0番台車を他区からの転入車や運用減により大量に廃車にしていたが、結局再び若番車が転入・残留するというのは皮肉な転配であった。以降急行「丹後」の廃止まで長く活躍し、1996年3月のダイヤ改正で山陰本線福知山までの電化が完成すると急行「丹後」は全廃され、1997年7月8日付で廃車となった。廃車後はタイへ譲渡された。

前面は、金沢時代に前面補強されているが、補強板の縁は平滑に仕上げられており分かりづらい。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部に寄り添う位置へ移設されている。放送用ジャンパは後期車のようにステップ一体型に改造されている。テールライトは左右ともに外ばめ式に改造されている。タイフォンは原形のスリット式カバーであるが、助手席側に傘状のカバーが設置されている。正面窓上の通風口は撤去されたが、水切りは残存している。当車は千葉時代のヘッドマークステイを貫通扉に残している。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられ、蓋が溶接で止められている。当車は5次車以降に準じ、乗降扉下部隅に丸窓が設置改造されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下機器は、ほぼ4VK搭載車の標準形態である。水タンクは新型のFRP製に交換されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、4位側デッキ床下へ設置されている。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。


1985年頃

↑JR化前の1985年頃の姿。晩年とあまり変わっていないが、冷房電源用KE8ジャンパ栓納めの位置が低く、また屋根上クーラーキセはメッシュタイプルーバーのものになっている。


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