キハ28 31 → キハ28 2031



1962年1月23日帝国車両製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で小郡機関区に新製配置された。同一ロット30〜34のうち、30〜33が小郡へ配置された。小郡では山陽本線の準急「周防」及び九州へ向かう準急「あきよし」で運用を開始した。1965年には山陽本線の電化により準急「周防」の1往復が電車化され余剰となり、1965年10月13日付で福知山へ転出した。福知山では主に急行「丹後」「丹波」等で活躍した。1972年3月のダイヤ改正では山陽新幹線岡山開業に伴い急行の再編が行われ、この際の転配で美濃太田へ転属した。美濃太田では急行「のりくら」等高山本線を中心に名古屋を起点とする急行で活躍したが、1973年度には需給の関係で名古屋へ転属した。名古屋では急行「のりくら」「紀州」「きそ」等、名古屋を起点とする急行列車で使用された。しかし当車は非冷房のままで名古屋で過ごし、1976年10月のダイヤ改正では特急「ひだ」の増発や特急「北アルプス」設定による運用変更があり、当車はでは10月29日付で捻出され七尾へ転属した。七尾ではキハ55系に代わり急行「能登路」で非冷房のまま活躍した。その後「53-10改正」では中央西線を中心とする中部地区の気動車急行の大幅削減が行われ、この際に冷房キハ58系が大量に七尾へ転入した。以降七尾では急行の冷房化が急速に進められ、当車は1979年3月25日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2031へ改番された。以降引き続き七尾線の急行「能登路」で活躍した。七尾には各地から比較的車齢の高い初期車が集められたが、国鉄最後の「61-11改正」時に、廃止が決まっていた越美南線を運用していた美濃太田機関区との間で車両交換が行われ、美濃太田から後期車が七尾へ転出し、当車は1986年10月28日付で美濃太田へ転出した。その後予定通り1986年12月10日越美南線の廃止で余剰となり、JRに継承されること無く、1987年2月9日付で廃車となった。

前面は、前面補強されてない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。テールライトは両側とも外ばめ式に改造されている。タイフォンカバーはシャッター式に改造されている。制御用ジャンパ受栓はタイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。放送用ジャンパ栓はステップ下部に設置されている。
側面では、運転室窓のバランサー点検蓋が追設されており、塞ぎ板が溶接されている。0番台車ながら長大編成対応の5次車以降に準じ乗降扉下部隅に丸窓が開けられている。3位側側面に4VK冷房発電セットの吸気口が開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下は、後位側に4VK冷房発電セットが搭載されている。水タンクは原形の鋼製タンクのままである。4次車までが装備していた発電動機箱は、4位側デッキ床下に設置されている。


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