キハ28 41 → キハ28 2041



1962年2月19日帝国車両製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で竹下気動車区に新製配置された。同一ロット39〜42のうち、39〜41が竹下へ配置された。竹下では長崎本線系統の急行の基本編成を中心に、各地へ向かう急行の付属編成等で広く活躍を開始した。1962年10月には大分へ転出し、日豊本線や久大本線の急行で活躍するようになる。1970年12月11日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを実施し2041へ改番されたが、当時大分へはキハ65の新製投入が進んでおりキハ28は他区で活用されることになり1971年度中に長崎へ転出した。長崎転出後は主に長崎本線系統の急行「いなさ・弓張」を中心に活躍をした。長崎本線は1976年7月1日に電化によるダイヤ改正が行われ一部の急行「出島・弓張」が電車特急格上げされたため所用数が減少し、1976年7月6日付で岡山へ転出した。岡山へはキハ58 209、231と共に転出し輸送力増強及び残存していたキハ55系急行の置き換えに使用された。岡山では急行「伯耆」「砂丘」「みまさか」で使用された。「57-7改正」で伯備線電化により急行「伯耆」が廃止された後は「砂丘」の増強に回ったが、「60-3改正」で急行「みささ・みまさか」の減便が行われた際に岡山の所用数が減少し余剰となり、1985年4月14日付で志布志機関区へ転出した。志布志には老朽化したキハ25やキハ26が多く残っており、これらの置き換えのためであった。志布志では日南線・志布志線・大隅線で活躍した。そしてJR化直前に志布志・大隅線が廃止されそれに伴い志布志機関区も廃止され鹿児島運転所へ統合され、そのままJR九州へ継承された。JR化後も鹿児島運転所配置ながら日南線用の「宮崎運用」とされ、引き続き当線で使用された。1988年12月6日付で「九州色」へ変更され、1993年9月27日付で近郊化及びワンマン化改造が行われ、ローカル専属化が行われた。ワンマン化が進められた1994年に鹿児島区では組織改正が行われ「霧島鉄道事業部」が開設され、当車は同部の管轄となり主に吉都線・肥薩線で活躍するようになった。2000年には再度組織改正が行われ霧島鉄道事業部は本所へ統合され、当車も鹿児島運転所での運用となる。その後筑豊篠栗線電化に伴う車両転配でキハ58系の活躍場所は急激に狭まったが当車は生き残り、鹿児島をベースに指宿枕崎線・肥薩線・吉都線をメインに使用された。しかし2006年6月〜7月にキハ220形が大分に新製配置されたのを機に車両の大幅な転配が行われ、鹿児島地区のキハ58系ワンマン車は捻出されたキハ40系に置き換えられ用途廃止となり2007年1月13日付で廃車となった。

前面は、岡山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下手すりも原形の位置のままである。制御用KE53ジャンパ受栓は、タイフォンの左右に設置されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは内ばめ式の取り付けビスを活かしたまま、外ばめ式に更新されている。正面窓上の雨どいが撤去されており、鹿児島地区の標準スタイルである。また、鹿児島地区では降灰の関係上デフロスタを装備している。貫通扉には快速で使用していたヘッドマーク掛けが残っている。
側面はおおむね原形であるが、近郊化の際に洗面所が撤去され、この部分の小窓が撤去されている。冷房化の際に3位側側面に吸気口が設けられている。また側面乗降扉の戸袋点検蓋が、後期車と同様の横長の大型のものに更新されている。
屋根上は通風器がすべて撤去されているのは九州共通の標準仕様である。また排気口が屋根より若干飛び出しているのも九州標準。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。後位側には4VK冷房用発電セットが設置されている。水タンクは新型のFRP製のものに交換されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、現在確認できる資料では見当たらない。当車は台車に砂撒き装置が取り付けられている。
妻面は、九州の近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。


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