キハ28 59 → キハ28 2059



1961年1月30日東急車両製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で秋田機関区に新製配置された。同一ロット59〜62全車が秋田へ配置された。秋田では急行「しらゆき」「おが」等の奥羽本線・羽越本線の幹線急行で活躍を開始した。1963年には新潟との間で運用移管があり、当ロット全車共に新潟へ転属することになり、当車は4月15日付で新潟へ移動した。新潟では急行「羽越」「うおの」「よねやま」等の比較的平坦路線の急行で主に活躍したが、1964年に新潟にも長大編成用後期車が新製配置されると玉突きで捻出される。そのため一旦5月1日付で北海道夏季輸送用に旭川へ転属後、夏季輸送終了後の10月7日付で大分へ転属した。大分では日豊本線や久大本線・豊肥本線系統の急行で活躍し、1970年8月31日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2059へ改番された。1971年度には長崎へ転属し、急行「いなさ・弓張」等の長崎本線系統の急行で使用されるようになった。1976年には長崎本線の電化が行われ気動車急行は一部が特急格上げされ、その際に当車は捻出され1976年7月3日付で鹿児島へ転属した。当時電化が進捗しており鹿児島では比較的ローカル急行しか残っていなかったが、これらに使用された。その急行も「55-10改正」で多くは快速に格下げされ、以降は鹿児島近辺の快速・普通列車で使用された。1983年には都城へ転属したが、主に急行の増結の他普通列車で使用された。国鉄末期の「61-11改正」では、志布志に集まっていた老朽気動車を置き換えるため1986年11月1日付で志布志へ転属するが、1987年3月までに志布志線・大隅線が廃止され志布志機関区も廃止されると鹿児島へ運用は統合され、1987年3月に鹿児島へ転属しそのままJR九州へ継承された。JR化直後には竹下へ移動し博多近郊の普通列車で使用されるようになった。1989年3月11日付で直方へ転属し、また同年3月17日付で近郊化改造され、筑豊地区で活躍するようになった。その後は筑豊地区で長く活躍し、途中1996年には直方気動車区は組織改正で筑豊篠栗鉄道事業部へと変わった。1999年より日田彦山線でもワンマン運転が行われることになり、当車は近郊化改造車であったことから種車となり、1999年2月27日付でワンマン化された。しかしワンマン化後の日田彦山線での活躍は長くなく、1999年10月に豊肥本線肥後大津電化により熊本から大量のキハ147が日田彦山線へ転入すると当車は早くも余剰となり、1999年度末までに鹿児島へ転属した。鹿児島では本所の所属となり指宿枕崎線や肥薩線・吉都線で活躍したが、2001年10月に筑豊本線・篠栗線が電化された際に大幅な車両転配が行われた際に余剰となり、当車は検査期限の関係から長崎へ予備車として転属した。しかし最後はキハ66系転入第2陣により置き換えられ、2002年3月22日付で廃車となった。

前面は、九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが若干下に移動しているのは九州では標準形。ステップの位置や制御用KE53ジャンパ受栓の位置等は、九州標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、ステップ一体型となっている。タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。晩年まで筑豊篠栗へ所属していたため、正面窓上の雨どい・通風口は原形のまま残っている。鹿児島地区では降灰の関係上デフロスタを装備している。当車は志布志時代に鹿児島地区標準のフック式のヘッドマークステイが貫通扉に取り付けられている。
側面は、近郊化改造が施工されているので、洗面所が撤去されており、当該箇所の臭気抜き窓がなくなっている。3位側側面に、4VK発電セット用の吸気口が設置されている。
屋根上は、全ての通風器が撤去されており、晩年の九州の特徴である。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。2000番台であり4VK発電セットを取り付けている。水タンクは、新型のFRP製のものに交換されている。
妻面は、九州の近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。


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