キハ28 65



1962年2月16日東急車両製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で和歌山機関区に新製配置された。同一ロット63〜66のうち、63〜65までが秋田へ配置され、66は和歌山へ配置されている。和歌山では急行「きのくに」を中心に紀勢本線の急行で活躍したが、1963年に和歌山へ大量の長大編成300番台が増備されると0番台車は捻出され、1963年12月12日付で小牛田へ転属した。しかし小牛田時代は短く同年度中に需給の関係で秋田へ転属している。秋田では急行「しらゆき」「おが」等で使用されたが、1965年上期には増備車配置により移動することになり、まず千葉地区の夏季海水浴輸送で使用すべく1965年7月10日付で千葉へ転属し、夏季輸送終了後の同年8月26日付で新潟へ転属した。しかし新潟転入直後の「65-10改正」に伴う転配で需給の関係で同年10月1日付で金沢へ転属した。その後当車は主に七尾線急行で使用されるため1965年度中に七尾へ移動している。七尾ではキハ55系と混用で急行「能登路」で活躍した。七尾では1970年代はキハ58系は少数派であった。1974年7月には長野よりキハ58非冷房車が七尾へ転入し、当車は玉突きで同年7月20日付で敦賀へ転出した。敦賀ではキハ26に代わり急行「わかさ」で使用されるようになり、この際に捻出されたキハ26は北海道へ渡りキユニ26へ改造されている。1980年10月の改正では各地で減車された冷房キハ58系が七尾へ転属し、玉突きで七尾から冷房車が敦賀へ転入しメンバーがほぼ総入れ替えとなったが、当車は非冷房のまま敦賀に残留し、主に近江今津・米原〜敦賀の普通列車で使用されるようになった。しかし敦賀に普通列車用のキハ40系が投入されると当車は捻出され、キハ26置き換え用に1982年7月18日付で七尾へ転属し、七尾線の普通列車で使用されるようになった。しかし美濃太田では「59-2改正」で急行の縮小に伴い小牛田から非冷房キハ28が転入すると玉突きで転出することとなり、当時まだキハ20が残留していた敦賀へ戻り再び湖西線・北陸本線の普通列車を中心に活躍した。しかし国鉄末期の「60-3改正」「61-11改正」で電車急行の廃止により急行型電車がこれらデッドセクションを通過する普通列車へ投入されると余剰となり1987年3月10日付で廃車となった。

前面は、敦賀時代に松任工場で前面補強されている。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。放送用ジャンパはステップ下部に設置されている。テールライトは運転席側のみ外ばめ式に改造されており、金沢地区のみで見られた形態である。タイフォンは原形のスリット式カバーである。
側面は、ほぼ原形である。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられている。また普通列車用となったことから側面窓下のサボを使用することとなり、サボ受けが追設されている。
屋根上は、原形のままである。
床下機器は、ほぼ原形である。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、2-4位側中央部床下へ設置されている。


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