キハ28 84



1962年4月25日帝国車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で高崎機関区に新製配置された。同一ロット84・85両車とも高崎へ配置された。高崎では両毛線経由の急行「わたらせ」や長野原線に直通する急行「草津」で使用されたが、電化により両急行は縮小され、1967年度に転出することとなりまず千葉地区の海水浴臨時列車に使用されることとなり、1967年上期に勝浦へ転出し、夏季輸送終了後の9月に岡山へ転出している。岡山では主に伯備線や津山線・因美線・姫新線の横断路線急行で活躍したが、1972年3月改正で山陽新幹線岡山開業により岡山発着の急行の一部が特急「やくも」に格上げされたこと等から、1972年3月度で米子へ転属した。米子では引き続き急行「伯耆」の他「だいせん」等で活躍したが、1972年10月のダイヤ改正に伴う受持ち変更や需給の関係で向日町へ転属した。向日町では主に京都発着の紀伊半島方面の急行「志摩」「しらはま」「はまゆう」で非冷房のまま使用された。「53-10改正」では主に中央西線関係の気動車急行大幅削減により長野からキハ65が向日町へ転入すると非冷房のキハ28は余剰となり、キハ17・20系置き換えのため1978年10月4日付で浜田へ転属した。浜田ではキハ26が急行に残っておりこれらを置き換え、主にローカル急行「石見」やキハ17系に代わり普通列車で使用された。同時期に浜田に転入した非冷房キハ28の188・199は後に冷房化されたが、当車は非冷房のまま活躍した。1982年7月には伯備線電化によるダイヤ改正があり、この際に冷房キハ58系が浜田へ転用されると非冷房の当車は余剰となり、キハ26の置き換え用に1982年7月5日付で豊岡へ転属した。豊岡では山陰本線・宮津線の普通列車の他、特に冬季には他のキハ58系に混ざり急行「丹波」「丹後」「但馬」等にも使用された。しかし国鉄最後の「61-11改正」で福知山線電化により急行「丹波」が廃止され「但馬」も縮小されると余剰となり、JRに継承されず1987年2月6日付で廃車となった。

前面は、福知山由来の後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP35のままであるが、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区特徴の、タイフォンの上部付近へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面は、ほぼ原形である。
屋根上は、ほぼ原形である。
床下機器も、ほぼ原形である。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、2-4位側中央部床下へ設置されている。


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