キハ28 89 → キハ28 2089



1962年5月9日帝国車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で盛岡機関区に新製配置された。同一ロット86〜89のうち、当車のみが盛岡へ配置された。盛岡では急行「三陸」をはじめ、東北本線の急行列車で使用開始した。1967年には後期車の増備により盛岡を離れることになり、1967年7月15日付で勝浦へ転属し、房総地区の夏季輸送用に使用された後に同年9月で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1970年より強馬力のキハ65が投入されるとキハ28は他区へ転出するようになり、当車は1970年6月24日付で再び勝浦へ転属した。勝浦では外房線・内房線の急行で活躍したが、1972年7月の外房線・内房線全線電化の際に捻出され、当車は1972年7月19日付で再び高松へ転属した。高松転出に際しは四国では晩年の1972年7月8日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2089へ改番された。その後はキハ26に代わり主に平坦な徳島方面の急行で使用され、1973年以降手狭になってきた高松運転所の高徳本線運用が徳島気動車区へ移管され、当車も同年度中へ徳島へ転出した。以降は比較的平坦な徳島地区の急行列車で使用され、国鉄末期の急行削減、高松からの余剰キハ65転入後も生き残り、そのままJR四国へ継承された。JR化後は1988年9月26日付で四国色へ変更され、同年1988年4月改正で急行が大幅削減された後は普通列車で主に使用されるようになった。1990年6月27日付で近郊化改造された。しかし近郊化改造後の活躍は短く、1992年3月のダイヤ改正で徳島へ1000形が増備されると余剰となり、1992年9月30日付で廃車となった。

前面は、多度津工場で四国タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等も、四国標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。当車は勝浦配置時代の名残で千葉ヘッドマークステイを貫通扉に残しているが、下部は欠損している。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。便洗面所が撤去された際に、臭気抜き窓が撤去されている。便洗面所窓ガラスも透明のものに交換されている。運転席側窓バランサー点検蓋は、四国標準の、台枠に近い部分に横長の開口部が設けられている。乗降扉の点検蓋は、後期車と同じ横長のものに改造されており、四国の標準形態である。当車は国鉄末期まで徳島配置であり汚物処理装置を取り付けないまま近郊化改造されたため、当然便所部側面にも点検蓋は付いていない。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はなない。。
床下では、便所が撤去されているが、床下の水タンクはそのままである。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、4位側デッキ床下へ設置されている。
妻面は、四国近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。これは、デッキ撤去に伴い、車内外を仕切る扉が無くなったための代替措置であった。


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