キハ28 101 → キハ28 2101



1962年6月6日帝国車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で米子機関区に新製配置された。同一ロット98〜101全車が米子へ配置された。米子では急行「だいせん」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍した。昭和41年度には山陰本線の急行運用の一部を福知山へ移管したことから、当車は同年度中に同一ロットの仲間全車共に福知山へ転属した。以降は急行「だいせん」の豊岡回転車をはじめ、急行「丹後」「丹波」等で活躍した。この状態は長く続き1970年10月16日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けで2101へ改番された。その後1972年度には福知山区の急行型の約半分を豊岡へ分散することになり、当車は同一ロットの仲間全車とともに豊岡へ転属した。豊岡では引き続き急行「丹波」「丹後」及び「だいせん」の増結車をメインに活躍した。この状態は国鉄末期まで続き、「61-11改正」で急行「丹波」「だいせん」が廃止された後は残った急行「丹後」「但馬」用として引き続き豊岡に留まり、そのままJR西日本へ継承された。JR化後も用途は変わらなかったが、1990年には向日町においてキハ65形がエーデル車に改造されて冷房電源車が不足してきたこと、12系客車に代わり波動用や修学旅行用としての需要が増加したことから1990年3月10日付で向日町へ転属した。その後は主に波動用・団体用の他季節急行「みやづ」で活躍した。1994年3月15日には他の向日町車と合わせるよう汚物処理装置が取り付けられた。1996年3月には組織改正で向日町運転所は京都総合車両所と名称を変えたが、運用の実態は同じであった。しかしながらキハ58系の老朽化により波動輸送がキハ181系化されることになり、2002年10月25日付けで廃車になった。

前面は、福知山由来の後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区特徴の、タイフォンの上部付近へ移設されている。タイフォンカバーはシャッター式に改造されている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はおおむね原形であるが、汚物処理装置が取り付けられた際に便所側面に点検蓋が設置されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下は、4VK発電ユニットが設置されている。水タンクは原形の鋼製のままである。後位側に循環式汚物処理装置が取り付けられている。


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