キハ28 103 → キハ28 2103



1962年6月21日帝国車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で米子機関区に新製配置された。同一ロット102・103のうち、当車のみが米子へ配置された。米子では山陰本線の急行列車で使用されたが、1966年に運用の都合で鳥取へ転属し、1967年度には需給の関係で奈良へ転出した。奈良では、奈良線・和歌山線経由の急行「しらはま」等で使用された。関西本線全線電化の1973年には奈良区の急行型配置は和歌山へ集約されることになり、1973年10月1日付で和歌山へ転出した。以降急行「きのくに」を中心に紀勢本線の急行列車で活躍し、和歌山転属後すぐの1974年8月9日付で冷房化及び4VK冷房電源取り付けを行い、キハ28 2103へ改番された。国鉄末期の「55-10改正」で381系増備により急行「きのくに」が削減された際に余剰となり、1980年10月8日付で水戸へ転出した。水戸には当時非冷房車が残存しており、これらの置き換え用であった。水戸では急行「ときわ」「奥久慈」のほか「いなわしろ」「いわき」で主に使用されたが、常磐無線を装備しないため常磐線内中間車限定で運用された。「57-11改正」で急行「いなわしろ」「いわき」が廃止された際に捻出され、当車は1982年11月23日付で山形へ転出した。なお、「57-11改正」では兄弟の2102も秋田から山形へ転属しており、新製時に盛岡に配置された「102」と、米子に配置された「103」が新製20年後に再会するという感動のエピソードであった。山形では非冷房車に代わり主に急行「月山」「べにばな」「もがみ」で使用され、同急行の冷房化に貢献した。その後急行「もがみ」が廃止された際に多くの仲間が廃車となったが当車は復活した急行「よねしろ」用となり、1986年10月29日付で秋田へ転出した。そしてそのままJR東日本へ継承された。JR化後も急行色のまま引き続き秋田配置で急行「よねしろ」を中心に使用されたが、急行「よねしろ」のアコモ改造を行うことになった際に当車はその対象から外れ余剰となるが、飯山線のキハ58系冷房化を上げるため活用されることになり、1991年4月19日付で長野へ転出した。転出後は1991年7月度に機関がカミンズ製DMF14HZへ換装され塗装も飯山色へ変更された。また、1994年度には前面補強も施工された。しかし1997年10月1日の長野新幹線開業に伴うダイヤ改正で飯山線はキハ110系化されキハ58系・キハ52は運用停止し、当車は転用されることなく1997年10月6日付で廃車となった。

前面は、JR化後の長野で前面補強されており正面手すり部が台座になった形状のものであるが、他の同種車と違いアンチクライマーは付いていない。ワイパーは原形のWP35のままである。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、秋田地区標準のテールライトの外側付近へ移設されている。テールライトは前面補強時に外ばめ式に変更されている。標識灯掛けは前面補強時に7-2次車以降と同じ、台座無しのタイプに変更されている。タイフォンは原形のスリット式カバーである。正面窓上の水切り・通風口は左右とも残存している。
側面は、機関換装時に給水口が埋められている。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。側面ほぼ中央の客室窓下に秋田時代にサボ挿しが設置されたが、飯山色へ変更された際にナンバー表記の位置は正規のキハ28の位置とされた(前位側から5枚目と6枚目の間)ため、窓半分だけずれている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態であるが、飯山色の塗分けが屋根上まで及んでおり特徴的である。
床下では、エンジンがカミンズ製DMF14HZへ更新されている。油タンクは原形のままである。水タンクは原形の鋼製のものである。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、2-4位側中央部床下へ設置されている。


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