キハ28 110 → キハ28 2110



1962年5月22日東急車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で千葉気動車区に新製配置された。同一ロット108〜111のうち、110・111が千葉へ配置された。千葉へは房総地区夏季海水浴臨のための仮配置で、夏季輸送終了後の9月に本来の配置区である鹿児島へ転属した。鹿児島では急行「フェニックス」「青島」といった鹿児島本線・日豊本線の幹線急行で活躍したが、後期車の増備により捻出され、1967年10月改正で美濃太田へ転属した。美濃太田では急行「のりくら」を中心に名古屋を発着する急行で活躍したが、翌年には需給の関係で同区を追われ、1968年7月5日付で房総地区夏季海水浴臨のため千葉へ転属し、夏季輸送終了後の9月25日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、キハ65が増備されると次第に平坦な徳島地区へ運用が限定されていった。四国では晩年の1972年7月28日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2110へ改番された。1973年以降手狭になってきた高松運転所の高徳本線運用が徳島気動車区へ移管され、当車も同年度中へ徳島へ転出した。以降は比較的平坦な徳島地区の急行列車で使用され、国鉄末期の急行削減、高松からの余剰キハ65転入後も生き残り、そのままJR四国へ継承された。JR化後は1988年10月8日付で四国色へ変更され、同年1988年4月改正で急行が大幅削減された後は普通列車で主に使用されるようになった。1990年10月2日付で近郊化改造された。しかし近郊化改造後の活躍は短く、1992年3月のダイヤ改正で徳島へ1000形が増備されると余剰となり、1993年3月31日付で廃車となった。

前面は、多度津工場で四国タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等も、四国標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。便洗面所が撤去された際に、臭気抜き窓が撤去されている。便洗面所窓ガラスも透明のものに交換されている。運転席側窓バランサー点検蓋は、四国標準の、台枠に近い部分に横長の開口部が設けられている。乗降扉の点検蓋は、後期車と同じ横長のものに改造されており、四国の標準形態である。当車は国鉄末期まで徳島配置であり汚物処理装置を取り付けないまま近郊化改造されたため、当然便所部側面にも点検蓋は付いていない。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はなない。
床下では、便所が撤去されているが、床下の水タンクはそのままである。当車の水タンクは原形の鋼製タンクのままである。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、1位側乗務員室床下へ設置されている。
妻面は、四国近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。これは、デッキ撤去に伴い、車内外を仕切る扉が無くなったための代替措置であった。


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