キハ28 118 → キハ28 2118



1962年6月15日東急車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で秋田機関区に新製配置された。同一ロット116〜119のうち、116〜118が秋田へ配置されている。秋田では急行「おが」をはじめ奥羽本線の急行を中心に活躍したが、1965年に長大編成用300番台が秋田へ増備されると当車は玉突きで小牛田へ転出した。小牛田では急行「陸中」等、仙台発着の東北本線急行をメインに活躍した。1969年度には需給の関係で新潟へ転出したが、1970年3月1日には運用移管で金沢へ転出した。金沢では北陸本線の急行「ゆのくに」「越後」の増結車の他、急行「大社」の金沢編成等で活躍した。1971年度夏季には中部山岳の多客輸送で応援に出され、1971年6月17日付で新潟へ転出し、同年9月30日に金沢へ戻っている。1972年には金沢の冷房化が進められ、非冷房の当車は冷房車の転入で入れ替わり、1972年11月21日付で美濃太田へ転出した。美濃太田では急行「のりくら」を中心に名古屋起点の急行で活躍した。美濃太田区では末期の1978年11月24日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2118へ改番されたが、改造直後に七尾へ転出した。七尾では1978年〜1980年でキハ58系の冷房化を急速に達成し、当車も急行「能登路」で国鉄末期まで活躍した。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後は急行用となり、1989年10月13日付で「七尾急行色」となり急行「能登路」で活躍した。1991年9月1日のダイヤ改正では七尾線の和倉温泉までの電化及び以遠の第三セクター化が行われ七尾の気動車配置は廃止されたが、引き続き輪島・珠洲へ直通する急行「能登路」用に残留し、1991年9月1日付で金沢運転所へ転出し、同年度中に「能登路」向け延命工事を受け黄色の「能登路色」となった。その後も引き続き急行「能登路」で活躍したが、2000年以降能登路の削減が進み、2002年3月23日に廃止された。この際に当車は余剰となり、他に活用されることなく2002年3月31日付で廃車となった。

前面は、七尾時代に前面補強されているが、境界線が平滑に仕上げられており補強板の形状は分かりづらい。正面窓上の水切り・通風口は左右とも撤去されている。延命工事施工時に熱線入りガラスに変更されたのでデフロスタは装備しない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。テールライトは外ばめ式に改造されている。タイフォンカバーはスリット式であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。制御用ジャンパ受栓は左右離れた位置に付いている。放送用ジャンパ受栓は、後期車に準じステップ一体型に改造されている。
側面では、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。正面雨どいが撤去された関係で、乗務員室側窓上部に水切りが追加されている。運転室窓のバランサー点検蓋が追設されており、塞ぎ板が溶接されている。乗降ドアの戸袋点検蓋が、後期車のような横長のものに更新されている。
屋根上は延命時にすべての通風器がガーランドベンチレーターに交換されている。
床下機器は1990年代以降の松任工場標準の、グレー台車になっている。油タンクは角型の新型に更新されている。後位側では、汚物処理タンクが設置されている。


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