キハ28 120 → キハ28 2120



1962年6月28日東急車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で千葉気動車区に新製配置された。同一ロット120・121両車とも千葉へ配置された。千葉では房総半島の急行で使用された。キハ58系では比較的早期の1969年度に冷房化されたが、この時点では4VK電源装置を取り付けていないので、改番はされていない。引き続き晩年まで房総地区の急行で使用された。その後「50-3改正」で房総地区の幹線電化が完成し気動車急行は全廃され、当車は1975年3月19日付で美濃太田へ転出した。美濃太田では急行「のりくら」を始めとして名古屋を起点とする急行で活躍した。「53-10改正」では中部地区で急行の廃止に伴う大幅な車両転配が行われ、当車は1978年10月6日付で七尾へ転出した。七尾ではそれまでのキハ55系に代わり急行「能登路」で使用され、1979年6月20日には4VK電源装置を取り付け、2120へ改番された。その後も急行「能登路」用として国鉄末期まで活躍し、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は普通列車用となり、1987年度には近郊化改造が施工され、1988年3月12日付で「七尾普通色」へ塗装変更された。しかし1991年7月の七尾線電化・和倉以遠の第三セクター化により用途を失い、高山本線へ転用されることになり、1991年9月に富山へ転出した。転出後は1992年3月31に付でワンマン改造され、また前後して塗装も緑色ベースの「高山色」へ変更され、高山本線のワンマン運用で使用された。しかし高山本線のJR西日本区間は1996年3月改正でキハ120化され、当車は1996年3月16日付で高岡へ転出した。高岡では運用効率の悪いキサハ34に代わり、氷見線・城端線で使用されるようになった。転属後には「高岡色U-2」へ塗装変更されている。しかし高岡での活躍も長続きせず、1999年10月に舞鶴線電化により福知山からモデルチェンジ車のワンマン車が転入すると余剰となり、2000年3月31日付で廃車となった。

前面は、金沢時代に前面補強されている。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。制御用ジャンパ受栓は、左右離れた位置へ移設されている。放送用ジャンパはワンマン用回路が1本増え、タイフォン横に設けられている。テールライトは内ばめ式のままである。タイフォンはスリット式であるが、乗務員室側には金沢地区特有の傘状のカバーが取り付けられている。正面窓上の水切り・通風口は左右とも撤去されている。当車は千葉配置車であるので、貫通ドアに千葉地区特有のヘッドマークステイが残存している。
側面は、前面窓から延びる水切りが撤去され、乗務員室窓に水切りが追設されている。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。ワンマン化改造時にドア付近へスピーカーの取り付けが行われている。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられ、蓋が溶接で止められている。
屋根上は、通風器が冷房化当初のまま残されている。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴である。水タンクは原形の鋼製のままである。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、4位側デッキ床下へ設置されている。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。


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