キハ28 127 → キハ28 2127



1962年7月20日帝国車両製の3次車で、昭和36年度第2次債務で高崎機関区に新製配置された。同一ロット126〜130のうち、当車のみ高崎へ配置された。高崎では両毛線経由の急行「わたらせ」や長野原線に直通する急行「草津」で使用されたが、電化により両急行は縮小され、1967年度に千葉へ転出した。千葉では房総半島の急行で使用され、キハ58系では比較的早期の1969年度に冷房化されたが、この時点では4VK電源装置を取り付けていないので、改番はされていない。引き続き晩年まで房総地区の急行で使用された。その後「50-3改正」で房総地区の幹線電化が完成し気動車急行は全廃され、当車は1975年4月15日付で直方へ転出した。直方では筑豊地区の快速及び普通列車で使用され、転入直後の1975年7月1日付で4VK電源装置を取り付け、2127へ改番された。しかし1976年7月の長崎本線電化に伴うダイヤ改正で九州北部のキハ58系に余剰が発生し、当車は1976年7月8日付で名古屋へ転出した。名古屋では急行「のりくら」「紀州」を始めとして名古屋を起点とする急行で活躍した。「53-10改正」では中部地区で急行の廃止に伴う大幅な車両転配が行われ、当車は1978年10月2日付で美濃太田へ転出した。美濃太田でも引き続き急行「のりくら」「紀州」を始めとして名古屋を起点とする急行で活躍した。しかし「60-3改正」での急行「紀州」の廃止、国鉄末期の「61-11改正」で「のりくら」の縮小により同急行の運用が名古屋へ集約された際に余剰となり、初期車の多く残っていた七尾へ1986年10月26日付で転属した。七尾では急行「能登路」や七尾線の普通列車で使用され、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は高山本線の普通列車用となり、1987年9月14日付で富山へ転出し、1987年度には近郊化改造が施工され、1988年11月21日付で「高山色」へ塗装変更された。高山本線は1992年よりワンマン化されることになり、1992年2月28日付でワンマン改造された。しかし高山本線のJR西日本区間は1996年3月改正でキハ120化され、当車は1996年3月16日付で高岡へ転出した。高岡では運用効率の悪いキサハ34に代わり、氷見線・城端線で使用されるようになった。転属後には「高岡色U-2」へ塗装変更されている。高岡での活躍も長くなく、2000年度末に姫路よりキハ47が高岡に転入した際に余剰となり、2002年1月27日付で廃車となった。

前面は、名古屋時代に前面補強されている。ワイパーはWP50へ更新されそれに伴い運転室窓下の手すりが極小のものとなっているのは、名古屋地区の特徴である。制御用ジャンパ受栓は、左右離れた位置へ移設されている。放送用ジャンパはワンマン用回路が1本増え、タイフォン横に設けられている。テールライトは、外ばめ式に更新されているが、内ばめ時代の取り付け座が残るタイプで、名古屋地区の標準形態である。タイフォンはスリット式のままである。正面窓上の水切り・通風口は左右とも撤去されている。当車は千葉配置車であるので、貫通ドアに千葉地区特有のヘッドマークステイが残存している。
側面は、前面窓から延びる水切りが撤去され、乗務員室窓に水切りが追設されている。乗降扉戸袋部の点検蓋は、後期車同様の横長の大型のものになっており、名古屋の特徴である。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。ワンマン化改造時にドア付近へスピーカーの取り付けが行われている。当車は乗務員室窓バランサー点検蓋が後年設けられ、蓋が溶接で止められている。
屋根上は、全ての通風器が断面5角形の箱型ベンチレーターに交換されている。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴である。当車は高岡転入後に複線型スノープロウが取り付けられている。油タンクは角型の新型に更新されている。水タンクは新型のFRP製に交換されている。後位側に4VK発電セットが取り付けられている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、1位側乗務員室下に設置されている。


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