キハ28 136 → キハ28 2136



1962年7月16日東急車両製の3次車で、昭和36年度第3次債務で米子機関区に新製配置された。同一ロット136・137両車とも米子へ配置された。米子では山陰本線の急行列車で使用された。1967年には需給の関係から鳥取へ転属するが、引き続き山陰本線を中心に使用された。1972年3月のダイヤ改正では山陽新幹線岡山開業に伴い列車運行系統の大幅改正が行われ、当車は需給の関係から向日町運転所へ転出した。向日町では京都から紀伊半島方面の急行「志摩」「しらはま」で活躍するようになった。そして1973年8月3日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2136へ改番された。その後は国鉄末期まで向日町で活躍し、1985年には宮原区の運用が向日町へ統合され、また急行の廃止等も進み、1986年の時点では急行「たかやま」「丹波」「志摩」「みまさか」で活躍していた。そして「61-11改正」で急行「志摩」「丹波」が廃止された際に捻出され、1986年10月29日付で広島へ転出し、同区の若番車と交代した。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後は急行「ちどり・たいしゃく・みよし」の芸備線急行で活躍したが1988年3月には芸備線急行の減車が行われた。これにより当車は余剰となり、1988年9月28日付で福知山へ転出した。福知山への転出は、当時山陰本線京都口で残っていた50系客車列車を気動車化し、運転効率を上げることと冷房化率を上げるのが目的であった。1990年3月には山陰本線京都口が電化されることになり福知山のキハ58系は大量に余剰となるが、当車は引き続き山陰本線の客車列車置き換えのため1990年3月8日付で米子へ転属した。米子では山陰本線の快速「わかとりライナー」「しまねライナー」をはじめ普通列車で使用された。1991年には運用の都合で鳥取へ転属したが、1994年12月3日には再び米子へ戻っている。1997年3月には組織改正で米子運転所は後藤総合車両所と名称を変えた。引き続き山陰本線の快速「とっとりライナー」「石見ライナー」を中心に普通列車で使用されたが、1999年に舞鶴線電化により福知山からキハ47が転入したことにより余剰となり、2000年3月31日付で廃車となった。

前面は、前面補強は向日町時代由来の関西地区タイプである。制御ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置に移設されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間に移設されている。タイフォンカバーはシャッター式カバーに改造されている。テールライトは内ばめから、外ばめに改造されている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、運転席窓下の手すりは、これを避けるべく短くなっているのは関西地区特有の形状である。正面窓上の通風口は埋められている。
側面では、5次車以降に準じ乗降ドア隅の丸穴が設けられている。また、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。末期に通風器が交換されたかどうかは不明である。
床下では、水タンクが新型のFRP製のものに交換されている。後位側では、循環式汚物処理タンクが設置されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、確認できる資料では見当たらない。


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