キハ28 144 → キハ28 2144



1962年8月28日東急車両製の4次車で、昭和37年度本予算で都城機関区に新製配置された。同一ロット142〜145のうち、143・144が都城へ配置された。都城では九州南部の急行列車で使用開始したが、同年度中に鹿児島へ移動し、鹿児島本線・日豊本線の幹線急行で活躍した。1964年度には急行「えびの」用として都城へ再度転出したが、1965年には同急行の運用移管により熊本へ転出した。急行「えびの」は肥薩線の勾配の関係で長く非冷房のままであったが、九州内キハ58系冷房化末期の1972年4月12日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2144へ改番された。しかしながら冷房化直後には比較的平坦な長崎本線急行のキハ65と車両交換があり、当車は1972年度中に長崎へ転出した。長崎では急行「いなさ・弓張」等の長崎本線系統の急行で使用されたが、「57-11改正」で長崎本線の急行が全廃された後は旧型客車やキハ55系に代わり普通列車で使用されるようになった。また「59-2改正」で715系電車投入により気動車普通列車も電車化が進められた後は大村線や松浦線を主な活躍の場とした。そしてそのままJR九州へ継承された。長崎ではボックスシートのまま普通列車用とされ1988年度に九州色へ変更された。そしてJR化後に新設された快速「シーサイドライナー」を中心に活躍したが、1988年度に需給の関係で大分へ転出した。大分では豊肥本線・久大本線の普通列車で使用されるようになった。1992年3月には大分地区でワンマン運転を行うことになり、直方の近郊化改造車が転入することとなり、当車はこれと入れ替えで1992年2月27日付で直方へ転出した。直方ではボックスシートのまま主に閑散路線の普通列車で活躍した。1996年には組織改正で所属が筑豊篠栗鉄道事業部と変わったが運用の実態は同じであった。1999年10月の豊肥本線肥後大津電化で車両の大幅な移動が行われ、筑豊篠栗へキハ40系が転入したためキハ58系の一部は余剰となった。しかし当車は大分地区の波動輸送用及び予備車として活用されることになり、1999年10月度に豊肥久大鉄道事業部へ転出した。同区では他の気動車に混じり豊肥本線・久大本線で使用されることになったが、出番は少なかった。そして運用見直し・予備車削減・波動輸送減少により余剰となり、老朽化も相まって2005年1月19日付で廃車となった。

前面は、九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが若干下に移動しているのは九州では標準形。当車は晩年の九州生え抜き車では珍しく、制御用KE53ジャンパ受栓がタイフォン下部に寄り添う位置に設置されている。放送用ジャンパ受栓は、JR九州化後の小倉工場標準である、助手席側タイフォン上部へ移設されている。タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。正面窓上の通風口と雨どいは原形のまま残されている。貫通扉にはヘッドマークステー等は無く、すっきりした顔立ちである。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。運転席側窓バランサー点検蓋が追設されている。乗降扉の点検蓋は、キハ40系と似た形態のユニット式へ改造されている。
屋根上は、全ての通風器が撤去されており、晩年の九州の特徴である。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項であるが、当車は助手席側のみのタイプである。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。2000番台であり4VK発電セットを取り付けている。水タンクは原形の鋼製タンクのままである。


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