キハ28 183 → キハ28 2183



1963年4月1日東急車両製の4次車で、昭和37年度第1次債務で岡山気動車区に新製配置された。同一ロット180〜183のうち、当車のみ岡山へ配置された。岡山では山陽本線の他津山線・伯備線の横断路線の準急・急行で使用開始した。後に山陽本線は電化により急行が無くなり、主に伯備線や津山線・因美線・姫新線の急行で活躍した。「ヨンサントオダイヤ改正」では需給の関係で米子へ転出し、山陰本線の急行で使用されるようになった。その後1969年には運用及び需給の都合で鳥取へ転出している。そして1971年6月9日付で冷房化及び発電エンジン搭載改造が行われ、2183へ改番された。冷房化直後の「72-3改正」では山陽新幹線岡山開業により山陰地区の急行の大幅な改変が行われ当車は宮原へ転出した。宮原では急行「ちくま」「ゆのくに」の他、「たかやま」「みまさか」等で広範囲に使用された。宮原では国鉄末期まで使用されたが、「59-2改正」で編成の減車が行われると余剰となり、1984年2月6日付で広島へ転出し、同区の若番車と交代した。国鉄最後の「61-11改正」では向日町よりさらに広島へキハ58系の転入が行われ、当車は玉突きで1986年11月1日付で小郡へ転出した。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後は急行「さんべ」「ながと」で活躍したが1988年3月には急行の減車が行われ余剰となり、1988年9月28日付で福知山へ転出した。福知山への転出は、当時山陰本線京都口で残っていた50系客車列車を気動車化し、運転効率を上げることと冷房化率を上げるのが目的であった。1990年3月には山陰本線京都口が電化されることになり福知山のキハ58系は大量に余剰となるが、当車は引き続き山陰本線の客車列車置き換えのため1990年3月8日付で鳥取へ転属した。鳥取では急行「砂丘」「但馬」の他、山陰本線の快速「わかとりライナー」「しまねライナー」をはじめ普通列車で使用された。1994年12月3日には米子へ転出し主に普通列車で使用されるようになる。1997年3月には組織改正で米子運転所は後藤総合車両所と名称を変えた。引き続き山陰本線の快速「とっとりライナー」「石見ライナー」を中心に普通列車で使用されたが、1999年に舞鶴線電化により福知山からキハ47が転入したことにより余剰となり、2000年3月8日付で廃車となった。

前面は、前面補強は宮原時代由来の関西地区タイプである。制御ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置に移設されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間に移設されている。タイフォンカバーはシャッター式カバーに改造されている。テールライトは内ばめから、外ばめに改造されている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されているが正面窓下の手すりは長いままで、恐らく広島時代にワイパー更新されたものと思われる。正面窓上の通風口は埋められている。
側面では、5次車以降に準じ乗降ドア隅の丸穴が設けられている。また、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。
屋根上は全ての通風器がハーフガーランドベンチレーターへ交換されている。
床下では、水タンクが新型のFRP製のものに交換されている。後位側では、循環式汚物処理タンクが設置されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、確認できる資料では見当たらない。後位側に4VK冷房発電セットが取り付けられている。


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