キハ28 195 → キハ28 2195



1963年2月1日帝国車両製の4次車で、昭和37年度第1次債務で和歌山機関区に新製配置された。同一ロット194〜196のうち、195・196が和歌山へ配置された。和歌山へは長大編成用車両が投入されるまでの繋ぎ的な配置で、1963年9月に300番台車が一挙に新製投入されると、9月20日付で千葉へ転属した。千葉では房総半島各線の急行で使用された。当車は1969年度に冷房化のみを実施した。千葉では房総気動車急行の最後まで活躍し、総武本線全線電化による「50-3改正」で余剰となり、1975年3月15日付で岡山へ転属した。岡山ではそれまで編成に混じっていたキハ26に代わり、急行「みささ」「砂丘」「伯耆」等で使用された。その後は他のキハ28と装備を共通化することから、1977年6月28日付で発電エンジン搭載改造が行われ、2195へ改番された。引き続き岡山配置で活躍したが、国鉄末期の「60-3改正」で岡山の担当していた急行「みささ」が廃止され余剰となり、1985年4月14日付で志布志へ転属した。志布志には当時数少なくなっていたキハ26や初期型のキハ20が大量に残っており、これらを淘汰するための転属であった。しかしながら国鉄末期の1987年3月までに志布志線・大隅線が廃止されることが決まっており、比較的状態の良い当車は廃車予定車と交代し1986年11月度に竹下へ転属した。そしてそのままJR九州へ継承された。JR化後は博多近郊の普通列車で活躍したが、1987年度中に直方へ転属し、筑豊地区で活躍するようになった。1989年3月改正では熊本へ転属し、豊肥本線や肥薩線の普通列車で活躍するようになった。そして熊本転属後九州色へ塗装変更されている。1993年3月のダイヤ改正では肥薩線の運用を人吉鉄道事業部へ分離することになり、1993年3月18日付で転属した。また転属直後の1993年5月31日付で近郊化改造及びワンマン化改造を施工され、同線はワンマン化された。1995年頃には人吉地区の民芸品である「きじ馬」をデザインした塗装へ変更され、異彩を放った。しかし人吉鉄道事業部への車輛の配置は結局廃止されることになり、当車は1997年11月29日付で鹿児島へ転属した。鹿児島では九州色へ塗り戻され、本所に配置され主に指宿枕崎線のワンマン列車で使用された。この指宿枕崎線が最後の活躍路線となり、2001年10月に筑豊本線・篠栗線が電化された際に大幅な車両転配が行われキハ200系やキハ40系が転入した際に余剰となり、2002年3月22日付で廃車となった。

前面は、岡山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下手すりも原形であるが、位置は原形より若干下がっている。制御用KE53ジャンパ受栓は、左右離れた位置に設置されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは内ばめ式の取り付けビスを活かしたまま、外ばめ式に更新されている。正面窓上の通風口と雨どいが撤去されており、鹿児島地区の標準スタイルである。また、鹿児島地区では降灰の関係上デフロスタを装備している。貫通扉には快速で使用していたヘッドマーク掛けが残っているが、その上部には千葉時代のヘッドマークステイの一部が残っている。
側面はおおむね原形であるが、近郊化の際に洗面所が撤去され、この部分の小窓が撤去されている。冷房化の際に3位側側面に吸気口が設けられている。また側面乗降扉の戸袋点検蓋が、後期車と同様の横長の大型のものに更新されている。
屋根上は通風器がすべて撤去されているのは九州共通の標準仕様である。また排気口が屋根より若干飛び出しているのも九州標準。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。後位側には4VK冷房用発電セットが設置されている。水タンクは新型のFRP製のものに交換されている。4次車までの初期車に搭載されている発電動機箱は、現在確認できる資料では見当たらない。
妻面は、九州の近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。


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