キハ28 359 → キハ28 2359



1964年9月21日帝国車両製の6-3次車で、昭和39年度本予算で大分機関区に新製配置された。同一ロット359・360のうち、当車のみ大分へ配置された。大分では久大本線・豊肥本線系統の横断線の急行で使用開始したが、1965年度には需給の関係で竹下へ転属している。竹下では長崎本線系統の急行で主に使用されるようになった。そしてキハ58系では比較的早期の1969年6月3日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2359へ改番された。その後も国鉄末期まで竹下で活躍し、「57-11改正」で長崎本線の急行が全廃された後は博多を中心とする普通列車で使用された。そしてそのままJR九州へ継承された。JR化後は普通列車用として使用されることになり、1988年11月15日付で近郊化改造が行われ同時に九州色へ変更された。1989年3月には各形式・内装を巡り車両交換が行われ、3月11日付で長崎へ転出した。長崎では新設された快速「シーサイドライナー」を中心に長崎本線・大村線で活躍した。1992年7月15日のダイヤ改正で快速「シーサイドライナー」の体質改善のため各地からアコモ改造車が転入し車両の大幅な入れ替えが行われ、当車は同日付で鹿児島へ転出した。鹿児島では、内装が原形であることから主に朝夕の指宿枕崎線のラッシュ用として使用されたが、鹿児島ではワンマン車・近郊化改造車で統一されることになり、当車は1995年4月20日付で直方へ転属した。直方では原形シートのまま主に日田彦山線で使用されたが、1999年10月のダイヤ改正で豊肥本線が肥後大津まで電化され、捻出されたキハ147で日田彦山線が置き換えられたことから当車は余剰となるが、検査期限の関係から引き続き使用されることになり、1999年10月に長崎へ転属した。長崎では再び快速「シーサイドライナー」や大村線の普通列車で使用されたが、2001年10月に筑豊本線・篠栗線が電化された際に大幅な車両転配が行われキハ200及びキハ66・67が転入した際に余剰となった。当車は2001年10月6日付で豊肥久大鉄道事業部へ転属し、豊肥本線・久大本線系統の予備車となったがあまり活躍の場はなく、2002年3月22日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下の手すりも原形のままである。よって非常にすっきりとした顔立ちである。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、タイフォン下部に寄り添う位置へ配置されている。放送用ジャンパ受栓は、小倉工場で多く見られる、タイフォン上部へ移設されている。タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。正面窓上の雨どい・通風口は原形のまま残っている。長崎では、幌枠に取り付けるタイプのヘッドマーク(シーサイドライナー用)を使用していたため、貫通扉にヘッドマークステイは取り付けられていない。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。運転席側窓バランサー点検蓋が追設されている。300番台以降の乗降扉下部隅の丸窓は、撤去されており存在しない。
屋根上は、全ての通風器が撤去されており、晩年の九州の特徴である。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項である。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。2000番台であり4VK発電セットを取り付けている。当車は床下水タンクが原形の鋼製のままである。


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