キハ28 360 → キハ28 2360



1964年9月21日帝国車両製の6-3次車で、昭和39年度本予算で新潟運転所に新製配置された。同一ロット359・360のうち、当車のみ新潟へ配置された。新潟では急行「赤倉」「越後」「羽越」等で使用されたが、勾配線区が多くキハ58が新製投入されると需給の関係からキハ28は転出するケースが多く、当車も1965年7月15日付で房総地区夏季海水浴輸送のため千葉へ転出した後、9月2日付で米子へ転出した。米子では山陰本線系の急行で使用され、急行「だいせん」「伯耆」等で使用された。1971年度に運用持ち替えで鳥取へ移動したが、引き続き山陰本線の急行「但馬」「白兎」等で使用され、1972年10月2日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けで2360へ改番された。改造直後には再び米子へ転出し、引き続き山陰地区の急行列車で使用された。その後「75-3改正」では再び鳥取へ転出し、山陰本線の急行や新たに鳥取の担当となった急行「砂丘」で長く活躍した。しかし国鉄末期の「60-3改正」では急行の編成短縮等の減量ダイヤが実施され余剰となり、他区の老朽車淘汰に活用されることになり、1985年5月23日付で長野へ転出した。長野ではキハ20系に代わり飯山線の普通列車で使用開始したが、能登線で脱線事故を起こしたキハ58系を補充するため1985年10月20日に早々に長野を去り七尾へ転出した。七尾では急行「能登路」や七尾線の普通列車で活躍し、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は1987年度中に近郊化改造され、ローカル輸送専属車となり、1988年には「七尾普通色」へ変更された。その後1991年の七尾線電化を見越し1990年度中に小浜へ転出し、1990年12月21日付でワンマン化され塗装も「小浜色」へ変更された。その後は長く小浜線・舞鶴線で普通列車で使用されたが、2003年3月15日の小浜線電化で余剰車となる。しかし他車は軒並み廃車となる中当車は2346とともに高岡に残っていた非ワンマンキハ28置き換えへ抜擢され、2003年3月15日付で高岡へ転出した。転属後は赤色ベースの高岡色Vへ変更され、氷見・城端線で活躍した。しかしながら氷見・城端線は各地からの余剰キハ40系により徐々にキハ58系は置き換えられ、当車も高岡へ転属後早々に余剰気味となるが、災害により一部不通となった越美北線の輸送力を確保するため2004年8月に越前大野鉄道部へ転出した。越前大野では、赤色の高岡色Vのままキハ58 1114と組み越美北線福井側のラッシュ輸送に使用された。その後越美北線復旧の進捗により当車は高山本線北部の増発社会実験の車両として抜擢され、2007年4月1日付で北陸地域鉄道部へ転出した。その後、最後の定期運用キハ58系であることから急行色へ塗り戻され、社会実験終了まで活躍した。そして実験の終了した後2011年10月11日に廃車となり、寿命を全うし解体された。

当車は鳥取時代の面影を色濃く残している。
前面は、鳥取・米子地区在籍車では珍しく、前面補強されていない。ワイパーはWP50へ更新されており、それに伴い運転席窓下の手すりの位置が下がっている。制御ジャンパ受栓位置やステップの位置は後藤工場標準である。放送ジャンパ受栓は、原形のステップ一体型である。タイフォンカバーは、新製時よりのシャッター式である。テールライトは原形の内ばめ式のままである。正面窓上の水切り・通風口とも撤去されており、晩年の金沢地区標準の形態である。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されており、乗務員室窓のみに水切りが追設されているのは、金沢地区の共通事項。乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのも、金沢地区の特徴。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。後位側便所側面に汚物処理装置の点検蓋が設けられている。
屋根上では、小浜所属車標準で通風器が断面5角形の箱型ベンチレーターへ交換されているが、さらに当車は4位側と1位側の1つずつが撤去されている。
床下は、4VK冷房電源装置を取り付けたキハ28の標準形態である。油タンクは角型のものに交換されている。水タンクはFRP製のものに交換されている。後位側にカセット式の汚物処理装置が取り付けられている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る