キハ28 397 → キハ28 2397



1965年4月1日帝国車両製の6-3次車で、昭和39年度早期債務で大分機関区に新製配置された。同一ロット394〜397のうち、396・397が大分へ配置されている。大分では久大本線・豊肥本線系統の横断線の急行で使用開始した。1968年度には需給の関係で直方へ転属したが、当時直方は800番台中心の配置で、1969年度には竹下へ転属している。そして1970年4月17日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2397へ改番された。竹下では再び長崎本線系統の急行をメインに九州内各線の急行で活躍し、鹿児島本線が電化された後は主に長崎本線で長く活躍した。国鉄末期の「57-11改正」で長崎本線の急行が廃止された後は主に博多近郊の普通列車で使用され、そのままJR九州へ継承された。JR化後も引き続き博多近郊の普通列車で使用されたが、1989年3月ダイヤ改正に伴う車両転配で大分へ転属した。大分では久大本線・豊肥本線系統の普通列車で使用され、塗装も九州色へ変更された。1991年11月15日のダイヤ改正では直方との間で近郊化改造車との車両交換があり、当車は同日付で直方へ転属した。直方では筑豊地区の普通列車で使用されたが、キハ200系の投入後は主に日田彦山線で使用された。その後は1999年10月のダイヤ改正で豊肥本線が肥後大津まで電化され、捻出されたキハ147で日田彦山線が置き換えられたことから当車は余剰となるが、検査期限の関係から引き続き使用されることになり、1999年10月に長崎へ転属した。長崎では再び快速「シーサイドライナー」や大村線の普通列車で使用されたが、2001年10月に筑豊本線・篠栗線が電化された際に大幅な車両転配が行われキハ200及びキハ66・67が転入した際に余剰となり、2002年3月22日付で廃車となった。

前面は、九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが大幅に下に移動しており、九州では珍しい形態である。また、中央部付近にある小手すりの位置も下へ移動している。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、タイフォン下部に寄り添う位置へ配置されている。助手席側のステップの位置は原形より上に移動している。放送用ジャンパ受栓は、小倉工場で多く見られる、タイフォン上部へ移設されているが、その位置は他車より幌枠寄りになっている。タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。正面窓上の雨どい・通風口は原形のまま残っている。当車はJR化後初期に竹下・大分で活躍しているが、「タウンシャトル」用の台形状ヘッドマーク受けは取り付けられていない。
側面は、3位側側面に4VK発電セットの吸気口が設置されている。運転席側窓バランサー点検蓋は原形のものは埋められ、形状が変わっている。300番台以降の乗降扉下部隅の丸窓は、撤去されており存在しない。
屋根上は、全ての通風器が撤去されており、晩年の九州の特徴である。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項であるが、当車は助手席側のみのタイプである。機関は原形のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。2000番台であり4VK発電セットを取り付けている。


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