キハ56 14 → キハ53 501



1961年9月22日新潟鐵工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で函館運転所に新製配置された。同一ロット11〜14全車が函館へ配置された。函館では新設された三階建急行の「オホーツク」「宗谷」「摩周」で使用開始した。その後車両の増備と共に編成の分離や函館本線区間の特急格上げ等が進み、1966年のダイヤ改正で需給の関係で苗穂へ転属した。苗穂では道内全域の急行で活躍したが、札幌運転区が開設されると順次運用が移管され、当車は1967年度中に札幌へ転出した。しかし1968年には札幌へモデルチェンジ車が大量に新製配置され、当車は押し出されるように旭川へ転出した。旭川では急行「宗谷」の付属編成や急行「かむい」「ましけ」「大雪」等で活躍した。この状態は長く続いたが、1981年10月改正で列車の運行体系が札幌起点へと大幅に改められ、急行「宗谷」は札幌〜函館間廃止の上苗穂担当となった。この頃から次第に普通列車に組み込まれることが多くなった。「60-3改正」では急行の廃止が進み当車も余剰気味となっていたが、普通列車の短編成化のためキハ56の両運転台化改造を行うことになり、当車はその種車に選ばれ、キハ27 37の運転台を移植し1986年3月31日付でキハ53 501へ改造された。この当時地方交通線の廃止が進み、国鉄解体に向けてキハ54の新製が計画されていたことから、あくまで「つなぎ」的な存在の筈であった。しかしキハ54の新製両数は必要最小限とされたことや、他の老朽キハ22より使い勝手が良いことから重宝され、そのままJR北海道へ継承された。JR化後は旭川運転所配置で各線で普通列車で使用された。1991年には宗谷北線営業所が開設され、キハ53はここに集められ、主に宗谷本線の名寄以北で活躍した。しかし1993年には宗谷北線のワンマン化を行うことになりキハ54と交代し、当車は非ワンマンのままの札沼線専用車として活躍することとなり1993年4月2日付で苗穂へ転出した。札沼線ではキハ141投入後唯一残った急行色定期運用で注目を集めた。1995年9月の深名線廃止後は旭川のキハ53も苗穂へ転入し交代で使用されたが、1996年3月のダイヤ改正でワンマン化に伴いキハ40 400番台が投入されることになり、これと交代し1996年3月29日付で廃車となった。

前位側前面は、旭川工場で前面補強されている。ワイパーは、WP50に改造されており、正面窓下の手すりは左右ともに同じ長さのままという旭川工場標準の形態である。デフロスタは北海道標準で左右両側に取り付けられている。当車は温水暖房付きの制御用ジャンパ受栓を取り付けている。当1-2次車まではステップがタイフォン上部に設けられているが、助手席側は撤去され無くなっている。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横付近へ設置されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式カバーである。テールライトは原形の内ばめ式である。正面窓上の通風口は左右とも撤去されている。
後位側前面(元キハ27 37)は、前面補強されていない。ワイパーは、WP50に改造されており、正面窓下の手すりは運転席側のみ短くなった、前面補強施工前の苗穂工場標準形態である。デフロスタは北海道標準で左右両側に取り付けられている。温水暖房付きの制御用ジャンパ受栓を取り付けている。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横、ステップ下部へ設置されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式カバーである。テールライトは原形の内ばめ式である。正面窓上の通風口は運転席側のみ残っているが、溶接されており開かない。台枠付近に銘板が1枚のみ取り付けられている。
側面は、乗降扉は原形の戸当たりレール2本のドアが付いている。側面のサボ挿しは車体中央部窓間下部へ移設されており、従来の扉脇のものは撤去されている。側面に縦樋が露出して設けられたが、その長さは他車と比べ若干短い。これはキハ53改造前のキハ56時代からの改造である。
屋根上は、非冷房車であり特に目立った特徴は無い。
床下はほぼ原形である。


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