キハ56 15 → キハ53 502



1961年10月2日新潟鐵工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で函館運転所に新製配置された。同一ロット15・16両車とも函館へ配置された。函館では新設された三階建急行の「オホーツク」「宗谷」「摩周」で使用開始した。1963年には函館に長大編成対応の100番台が新製投入され、当車は玉突きで苗穂へ転出した。苗穂では道内全域の急行で活躍したが、札幌運転区が開設されると順次運用が移管され、当車は1966年度中に札幌へ転出した。しかし1968年には札幌へモデルチェンジ車が大量に新製配置され、当車は押し出されるように旭川へ転出した。旭川では急行「宗谷」の付属編成や急行「かむい」「ましけ」「大雪」等で活躍した。この状態は長く続いたが、1981年10月改正で列車の運行体系が札幌起点へと大幅に改められ、急行「宗谷」は札幌〜函館間廃止の上苗穂担当となった。この頃から次第に普通列車に組み込まれることが多くなった。「60-3改正」では急行の廃止が進み当車も余剰気味となっていたが、普通列車の短編成化のためキハ56の両運転台化改造を行うことになり、当車はその種車に選ばれ、キハ27 2の運転台を移植し1986年3月31日付でキハ53 502へ改造された。この当時地方交通線の廃止が進み、国鉄解体に向けてキハ54の新製が計画されていたことから、あくまで「つなぎ」的な存在の筈であった。しかしキハ54の新製両数は必要最小限とされたことや、他の老朽キハ22より使い勝手が良いことから重宝され、そのままJR北海道へ継承された。JR化後は旭川運転所配置で各線で普通列車で使用された。1991年には宗谷北線営業所が開設され、キハ53はここに集められ、主に宗谷本線の名寄以北で活躍した。しかし1993年には宗谷北線のワンマン化を行うことになりキハ54と交代し、当車は非ワンマンのままの深名線専用車として活躍することになった。深名線では超過疎ローカル線を急行色単行で活躍し注目を集めた。1995年9月の深名線廃止後は唯一キハ53 500番台が残った札沼線用として1995年9月6日付で苗穂へ転属したが当車は同線で活躍することはなく、1996年3月のダイヤ改正でワンマン化に伴いキハ40 400番台が投入されることになり、これと交代し1996年3月29日付で廃車となった。

前位側前面は、旭川工場で前面補強されている。ワイパーは、WP50に改造されており、正面窓下の手すりは左右ともに同じ長さのまま位置が低いという旭川工場標準の形態である。デフロスタは北海道標準で左右両側に取り付けられている。当車は温水暖房付きの制御用ジャンパ受栓を取り付けている。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横ステップ下部へ設置されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式カバーである。テールライトは原形の内ばめ式である。正面窓上の通風口は左右とも撤去されている。
後位側前面(元キハ27 2)は非常に特徴のある顔を1990年代中盤まで残しており注目の車であった。1-1次車ながら前面補強が施工されており。釧路工場で施工されている。ワイパーは、WP50に改造されているが、1-1次車の手すりは短くワイパーと干渉しないのでそのままである。1-1次車はヘッドライトが中央に100ミリ寄っており、独特の風貌である。またキハ56系の1-1次車は側面の裾絞り形状も1-2次車以降と異なり、若干直線的な折れ方となっている。ステップは1-2次車までの特徴でタイフォン上部にある。デフロスタは北海道標準で左右両側に取り付けられている。温水暖房付きの制御用ジャンパ受栓を取り付けている。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横、ステップ下部へ設置されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式カバーである。テールライトは原形の内ばめ式である。正面窓上の通風口は左右とも撤去されている。タイフォン上部に銘板が2枚取り付けられている。
側面は、乗降扉は原形の戸当たりレール2本のドアが付いている。なお当車は後位側便所側の乗降扉は、タブレット保護柵用の窪みの無い、後位側用のドアを付けている。側面のサボ挿しは車体中央部窓間下部へ移設されており、従来の扉脇のものは撤去されている。側面に縦樋が露出して設けられているが、これはキハ53改造時の施工である。
屋根上は、非冷房車であり特に目立った特徴は無い。
床下はほぼ原形である。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る