キハ57 19



1961年9月25日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で長野機関区へ配置された。同一ロット18・19が長野へ配置されている。長野では「アプト式」専用車両として信越本線の急行「志賀」「丸池」「とがくし」「妙高」および中央西線の「ちくま」で使用された。しかし登場から年も浅い1963年10月のダイヤ改正で碓氷峠は新線に切り替えられアプト式は廃止となり、また長野までの電化も完成したため碓氷峠を通過する急行は縮小され、直江津へ直通する「妙高」のみとなった。以降は急行「きそ」「ちくま」「すわ」「のべやま」で、中央西線及び小海線の急行で活躍した。1970年代にはキハ65の増備により冷房化され、新潟から移管された急行「越後」にも使用されることになり幹線急行で活躍した。しかし「53-10改正」では、全区間電化急行であった「ちくま」「越後」が電車化されて長野のキハ57系は大量に余剰となり、当車は四国の急行指定席車として活用することになり1978年10月3日付で高松へ転出した。高松では汚物処理装置の取付を行い急行の指定席車で使用され、そのため先頭に立つ機会が多かった。しかし「55-10改正」では四国の急行営業方針が変更され、グリーン車を廃止しこれをそのまま普通車指定席へ格下げすることになり、当車は他のキハ58に混じり自由席車で使用されるようになった。当車は空気バネ台車で乗り心地が良いことから四国へ転入したが、車齢は古くまた特殊装備が嫌われる傾向もあり次第に敬遠されるようになる。国鉄末期の「60-3改正」では同じく汚物処理装置を装備する「広島・宮原・秋田」から状態の良いキハ58が転入し大半のキハ57は余剰となり国鉄末期で廃車となったが、当車と22のみはなぜかJR四国へ継承された。JR化後は1989年3月8日付で四国色へ変更され引き続き急行で活躍したが、2000系特急が新製投入された1990年11月ダイヤ改正で高松の急行型配置は無くなり、当車は22と共に11月21日付で松山へ転出した。松山では普通列車で使用されたが、1992年の高知への1000型投入により高知から状態の良いキハ58が松山へ転入しキハ57は玉突きで余剰となり、1992年3月31日付で廃車となった。

前面は、早期廃車対象であったためか、前面補強が施工されておらずすっきりした顔立ちである。ワイパーは強化型のWP50へ改造されているが運転席窓下の手すりは手を加えられていない、四国標準の形態である。制御用KE53ジャンパ受栓は左右離れた位置へ移設されており、オリジナルの四国生え抜き車とは形態が異なる。放送用ジャンパ受栓はステップ下部へ台座付きで設置されている。タイフォンカバーは、スリット状カバーを装備する。
側面は原形を良く保っているが、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋が設けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり、特筆すべき点は無い。
床下は、原形を保っている。DT31系空気バネ台車が珍しい。また後位側に汚物処理装置が設置されている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る