キハ58 4



1961年5月15日新潟鉄工製の1-1次車で、昭和35年度債務で松本機関区へ配置された。同一ロット4・5両車とも松本へ配置された。松本では中央東線の急行「アルプス」でキハ55に混ざり使用開始した。次第にキハ58は増備されキハ58系オンリーの編成となるが、1963年4月より増備車として長大編成対応の400番台が大量に松本に投入されると早くも捻出され、1963年5月28日付で次ロットの仲間と共に4〜7の4両が山形へ転属した。山形では急行「ざおう」等で使用された。この4両のうち5〜7は早々と東北地区から去るが、当車のみはしばらく東北に残留し、需給や増備車の関係で1965年10月改正で小牛田へ、1966年10月改正で秋田に転出したのち、1967年度に増備車の投入により若番車は捻出され、1967年7月18日付で房総地区夏季輸送のため館山機関区へ転出したのち、夏季輸送終了後の9月3日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、早くも1969年にはキハ65の投入により若番非冷房車から捻出されることとなり、当車は中部山岳地区の夏季輸送のため1969年7月20日付で美濃太田へ転属の後、夏季輸送終了後8月31日付で正式配置区である尻内(八戸)へ転属した。尻内では八戸線から青森・弘前方面へ向かう運用を中心に活躍したが、1970年10月改正で同運用の一部が弘前へ移管されることから当車も弘前へ転属した。弘前では急行「深浦」をはじめとして奥羽本線北部の急行で主に活躍した。弘前での活躍は長く続いたが当区にはキハ58 4・7・15・22といった若番非冷房車が集まっており、これの置き換え用に1981年3月状態の良いキハ58が山形から転入し、これと入れ替えに当車は1981年3月16日付で大分へ転属した。この転属は「55-10改正」で九州の急行削減・減車によって捻出された大分の冷房キハ58 55・82・85を山形へ転属させ、山形の状態の良いキハ58 97・100・201を弘前へ転属させ、玉突きで捻出された弘前のキハ58 4・7・15を大分へ転属させ、大分の老朽キハ55を置き換えるという玉突きであった。大分では非冷房車であることから主に豊肥本線・久大本線の普通列車で使用された。しかし国鉄末期の「59-2改正」「60-3改正」改正では九州内急行の更なる縮小・削減が行われ、状態の良いキハ58冷房車が普通列車にも転用されるようになると若番非冷房車の当車は真っ先に余剰となり、1986年3月31日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。1-1次車は正面窓下の手すりが短い特徴があり、当車もその特徴を残している。ワイパーはWP50へ更新されているが、正面窓下の手すりは前述の通り短く干渉しないため、改造されていない。正面窓上の通風口は、ヘッドライトより内側に10cm寄っており、1-1次車(キハ58 1〜10)の特徴である。タイフォンカバーは弘前時代はシャッター式に改造されていたが、大分転出後に九州特有の形状のスリット式カバーへ改造されている。1-1次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前記タイフォンカバー改造と同じタイミングで2次車以降と同じタイフォン横へ移設されている。放送用ジャンパ受栓はタイフォン横にあるが、四国若番車標準の足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、非冷房車ながら冷房車と同じくタイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。テールライトは弘前時代より外ばめ式に改造されている。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上もほぼ原形のままである。
床下では、新製当初はFRPの油タンクを装備していたが、のちに他と同じ鋼製のものに交換されている。


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