キハ58 6



1961年5月22日新潟鉄工製の1-1次車で、昭和35年度債務で松本機関区へ配置された。同一ロット6〜8のうち、6・7が松本へ配置された。松本では中央東線の急行「アルプス」でキハ55に混ざり使用開始した。次第にキハ58は増備されキハ58系オンリーの編成となるが、1963年4月より増備車として長大編成対応の400番台が大量に松本に投入されると早くも捻出され、1963年5月28日付で山形へ転属した。山形では急行「ざおう」等で使用されたが1963年10月のダイヤ改正で需給の関係で秋田へ転属している。秋田では急行「おが」等で使用されたが秋田でも長大編成対応車の増備により追われることになり、まず北海道で夏季輸送に使用するため1964年3月8日付で苗穂へ転属したのち、夏季輸送終了後の10月6日付で大分へ転属した。大分では急行「ひまわり」「ひかり」等、豊肥本線・久大本線系統の急行で使用されたものの、ここでも長大編成対応車の増備により捻出され、1965年3月6日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍した。四国では比較的長期間使用され、まず簡易冷房車化改造が行われ1967年7月26日付で改造された。そして量産冷房が定着し、また電源となるキハ65の増備も行われると量産化改造が行われることになり、1970年4月23日付で通常の冷房車同様に冷房7基へ改造された。その後も四国全域の急行で活躍したが、高松運転所では特急型の配置に伴い配置両数が飽和してきたため高徳本線系統の急行を徳島へ分離することになり、主に若番車が徳島へ移動することとなり当車も1972年度中に徳島へ転属した。以後は高徳本線系統の急行「阿波・むろと」や「よしの川」で使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月11日付で七尾へ転出し、当区に配置されていた非冷房キハ58と入れ替わり、七尾線の急行「能登路」で使用されるようになった。七尾では国鉄末期まで活躍したが、1985年以降急行の削減により各地より状態の良いキハ58が転入すると余剰となり、1987年1月14日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。1-1次車は正面窓下の手すりが短い特徴があり、当車もその特徴を残している。ワイパーはWP50へ更新されているが、正面窓下の手すりは前述の通り短く干渉しないため、改造されていない。正面窓上の通風口は、ヘッドライトより内側に10cm寄っており、1-1次車(キハ58 1〜10)の特徴である。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。1-1次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。
側面はほぼ原形のままであるが、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。資料によると簡易冷房車から量産化改造された車両は冷房の位置が異なるとあるが、その後改造されたのか他の量産冷房改造車との区別はない。
床下では、新製当初はFRPの油タンクを装備していたが、のちに他と同じ鋼製のものに交換されている。


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