キハ58 14



1961年5月31日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット11〜14のうち、14のみが名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。その後1962年には増備車の投入及び需給の関係で、1962年12月17日付で松本へ転属した。松本では中央東線の急行「アルプス」で長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年5月30日付で山形へ転属した。山形では急行「ざおう」等で活躍した。しかし山形での活躍は短く、1963年度中に需給の関係で青森へ転属した。青森では新規に設定された急行「陸中」を中心に活躍するが、長大編成対応の増備車投入により他区へ転出することとなり、まず1964年5月19日には北海道夏季輸送として苗穂機関区へ転属する。夏季輸送終了後は1964年10月8日付で美濃太田機関区へ転出し、高山本線の急行で活躍するようになる。しかし美濃太田での活躍も長続きせず、翌1965年夏季には房総海水浴輸送として7月19日付で千葉へ転出し、海水浴臨終了後の9月27日付で高松運転所へ転出した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1970年よりキハ65が投入されると捻出され、1970年3月16日付で大分へ転属した。大分では急行「由布」「火の山」等豊肥本線・久大本線系統の急行で活躍した。その後「47-3改正」では需給の関係で竹下へ転属し、主に長崎本線系統の急行で活躍したが1974年4月25日付で運用移管で長崎へ転属した。長崎でも引き続き長崎本線系統の急行「いなさ・弓張」で活躍した。山陽新幹線博多開業の「50-3改正」では特急増発により九州内急行の再編が行われ所要数が減少し、1975年3月14日付で新潟へ転属した。なお当車は1980年代には冷房化されているが、これが九州時代の冷房化なのか新潟転出後の冷房化なのかは定かではない。それは同改正で他に非冷房キハ58は九州から新潟へ転出しているからである。新潟では急行「赤倉」をはじめ、「いいで」「あがの」「あさひ」「羽越」等、新潟を起点とする急行で活躍した。前述の通り冷房化の時期は定かではないが、1980年の時点では既に冷房化されており、主に急行「赤倉」で活躍していた。「57-11改正」で急行「赤倉」が廃止された後は冷房車は急行「べにばな」快速「あがの」等で活躍したが、「60-3改正」で編成短縮及び運転区間短縮により所要数減少し余剰気味となる。その後「61-11改正」で状態のよいキハ58が山陰地区から転入すると用途を失い、1987年12月20日付で廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーはWP50へ更新されており、正面窓下の手すりはこれを避けるべく少し位置が下がっているのは新潟地区の標準的な形態である。タイフォンカバーは国鉄新潟地区特有の竹槍状のカバーである。テールライトは原形の内ばめ式のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置へ設置されている。
側面はほぼ原形のままであるが、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は、通風器の取り付け向きが180度逆に付いており、極めて異彩を放っている。この通風器は建築限界に接触しないようデザインされたものであり、逆向きにつけた場合、建築限界内に入っていたのか疑問である。
床下もほぼ原形のままであるが、単線用スノープロウを取り付けている。


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