キハ58 15



1961年6月8日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット15〜18全車が名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。その後1962年には増備車の投入及び需給の関係で、1962年12月17日付で松本へ転属した。松本では中央東線の急行「アルプス」で長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月12日付で北海道夏季輸送として苗穂機関区へ転属し、夏季輸送終了後の9月20日付で秋田機関区へ転属した。秋田では急行「おが」「しらゆき」を中心に活躍したが、長大編成対応車の増備により追われることになり、まず北海道で夏季輸送に使用するため1964年6月17日付で苗穂へ転属したのち、夏季輸送終了後の10月6日付で大分へ転属した。大分では急行「ひまわり」「ひかり」等、豊肥本線・久大本線系統の急行で使用されたものの、ここでも長大編成対応車の増備により捻出され、1965年3月8日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1969年にはキハ65の投入により若番非冷房車から捻出されることとなり、当車は中部山岳地区の夏季輸送のため1969年7月20日付で美濃太田へ転属の後、夏季輸送終了後8月30日付で正式配置区である小牛田へ転属した。小牛田では急行「たざわ」「千秋」等仙台を発着する急行で主に活躍した。1970年10月改正では一部急行運用が弘前へ移管されることから当車も弘前へ転属した。弘前では急行「深浦」をはじめとして奥羽本線北部の急行で主に活躍した。弘前での活躍は長く続いたが当区にはキハ58 4・7・15・22といった若番非冷房車が集まっており、これの置き換え用に1981年3月状態の良いキハ58が山形から転入し、これと入れ替えに当車は1981年3月16日付で大分へ転属した。この転属は「55-10改正」で九州の急行削減・減車によって捻出された大分の冷房キハ58 55・82・85を山形へ転属させ、山形の状態の良いキハ58 97・100・201を弘前へ転属させ、玉突きで捻出された弘前のキハ58 4・7・15を大分へ転属させ、大分の老朽キハ55を置き換えるという玉突きであった。当車は1964年度の一時期大分に配置されていた経歴があり、久しぶりの里帰りでもあった。大分では非冷房車であることから主に豊肥本線・久大本線の普通列車で使用された。しかし国鉄末期の「59-2改正」「60-3改正」改正では九州内急行の更なる縮小・削減が行われ、状態の良いキハ58冷房車が普通列車にも転用されるようになると若番非冷房車の当車は真っ先に余剰となり、1985年11月20日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーはWP50へ更新され、それに伴い正面窓下の手すりが若干下がっているのは小倉工場でよくみられる形態である。タイフォンカバーは弘前時代はシャッター式に改造されていたが、大分転出後に九州特有の形状のスリット式カバーへ改造されている。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されており、当車はその特徴を残している。放送用ジャンパ受栓はタイフォン横にあるが、四国若番車標準の足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、非冷房車ながら冷房車と同じくタイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。テールライトは弘前時代より外ばめ式に改造されている。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上もほぼ原形のままである。
床下もほぼ原形のままである。


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