キハ58 16



1961年6月8日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット15〜18全車が名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。しかし1963年には松本へ長大編成対応の400番台が一挙に投入されると松本配置の0番台の2次車〜4次車が名古屋へ転入し、玉突きで名古屋の1次車が転出することとなった。そのため1963年6月20日付で山形へ転属した。山形では急行「ざおう」等で活躍した。しかし山形での活躍は短く、1964年の長大編成対応の増備車投入により他区へ転出することとなり、同年度中で盛岡へ転属した。盛岡では急行「さんりく」「陸中」等で活躍したが、「ヨンサントオ改正」ではモデルチェンジ車が大量投入されたことと東北本線全線電化で捻出され、1968年10月13日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1969年よりキハ65が投入されると捻出され、中部山岳の夏季輸送で使用するため1969年7月21日付で美濃太田へ転属したのち、夏季輸送終了後の8月30日付で小牛田へ転属した。小牛田では急行「たざわ」「千秋」等仙台を発着する急行で主に活躍した。1970年度には需給の関係と一部運用移管等で盛岡へ転出し、急行「陸中」等で活躍するようになった。しかし盛岡での活躍も長くなく1972年3月ダイヤ改正では東北地区でも特急の増発による急行の一部見直しがあり、当車は1972年3月27日付で鳥取へ移動した。鳥取転出前後で冷房化されており、主に急行「白兎」「砂丘」「但馬」等で活躍した。しかし1972年10月改正で高松のキハ65との車両交換が行われ、当車は1972年9月29日付で高松へ転属した。高松での活躍は2度目で四国全域の急行で活躍したが、1975年10月以降キハ181系が尾久より高松へ転入すると玉突きで1975年11月16日付で秋田へ転属した。秋田では3度目の東北となり、冷房車であることから急行「しらゆき」で主に活躍した。東北・上越新幹線開業に伴う「57-11改正」で急行「しらゆき」が廃止されると1982年11月15日付で山形へ転属し、急行「月山」「もがみ」等で活躍した。しかし国鉄最後の「61-11改正」で急行「もがみ」が廃止されると余剰となり、1987年2月10日付で廃車となった。

前面は、国鉄時代の秋田配置時に土崎工場で前面補強されている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されているが、秋田地区標準で、運転室窓下の手すりは変更されていない。タイフォンカバーは回転式で、この時期に山形に転入した車両の標準装備である。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時後はタイフォン横へ移設され平凡な顔になっている。放送用ジャンパ線受は、秋田地区標準でテールライトの左上付近に移設されている。制御用ジャンパ受栓は、前面補強時に非冷房車と同じ位置へ移設され異彩を放っている。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままであるが、複線用スノープロウを取り付けている。


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