キハ58 17



1961年6月8日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット15〜18全車が名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。しかし1963年には松本へ長大編成対応の400番台が一挙に投入されると松本配置の0番台の2次車〜4次車が名古屋へ転入し、玉突きで名古屋の1次車が転出することとなった。そのため1963年9月16日付で小牛田へ転属した。小牛田では急行「陸中」「たざわ」「千秋」等東北本線北部の急行で活躍したが、その後は東北管内では電化による運用変更や増備による玉突きが多く、1966年度には秋田へ、そして1967年度には盛岡へ転属した。盛岡では急行「さんりく」「陸中」等で活躍したが、「ヨンサントオ改正」ではモデルチェンジ車が大量投入されたことと東北本線全線電化で捻出され、1968年10月13日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1969年よりキハ65が投入されると捻出され、6月30日付で鳥取へ移動した。鳥取では急行「白兎」「だいせん」「砂丘」「但馬」等で活躍し、1970年以降に冷房化されている。しかし1972年10月改正で高松のキハ65との車両交換が行われ、当車は1972年9月29日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1975年3月以降キハ181系が名古屋より高松へ転入すると玉突きで1975年3月17日付で金沢へ転属した。金沢では急行「大社」「ゆのくに」等で活躍したが、1976年10月の中部地区ダイヤ改正による運用変更で捻出され、1976年11月6日付で七尾へ転属した。七尾では非冷房車に混じり急行「能登路」で活躍を開始した。その後は七尾の冷房車は増加し、急行の他七尾線・能登線の普通列車でも使用された。七尾には各地から比較的車齢の高い初期車が集められたが、国鉄最後の「61-11改正」時に、廃止が決まっていた越美南線を運用していた美濃太田機関区との間で車両交換が行われ、美濃太田から後期車が七尾へ転出し、当車は1986年10月30日付で美濃太田へ転出した。その後予定通り1986年12月10日越美南線の廃止で余剰となり、JRに継承されること無く、1987年2月9日付で廃車となった。

前面は、前面補強されてない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。
側面はほぼ原形のままであるが、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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