キハ58 19



1961年6月14日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット19〜22全車が名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。しかし1963年には松本へ長大編成対応の400番台が一挙に投入されると松本配置の0番台の2次車〜4次車が名古屋へ転入し、玉突きで名古屋の1次車が転出することとなった。そのため1963年6月30日付で和歌山へ転属した。和歌山では急行「きのくに」等紀勢本線で活躍した。しかし和歌山へも長大編成対応の400番台車の増備が進むと捻出され、1964年12月30日付で高崎へ転属した。高崎では急行「草津」「わたらせ」の増強用に使用された。しかし1967年に長野原線が電化されると同急行も電車化され捻出され、まずは房総地区の夏季海水浴輸送に使用するため1967年7月1日付で館山へ転属し、夏季輸送終了後の9月に米子へ転属した。米子では急行「だいせん」等山陰本線の急行や伯備線の急行で活躍したが、「ヨンサントオ改正」では受け持ち区の変更により岡山へ転属した。岡山では引き続き伯備線の急行「伯耆」の他、急行「砂丘」「みささ」等で活躍した。そして1970年代中盤には冷房化されている。国鉄末期の「55-10改正」では急行の減車が行われ捻出され、1980年11月3日付で福知山へ転属した。福知山では急行「丹波」「丹後」等、山陰本線・福知山線系統の急行で国鉄末期まで活躍したが、「61-11改正」で福知山線電化により福知山周辺の急行が整理された際に余剰となり、1987年2月6日付で廃車となった。

イラストは1981年頃の姿であり、最晩年の姿ではないのでご承知おき願いたい。
前面は、前面補強されてない。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送ジャンパ受栓は、岡山時代の名残で関西地区特有のタイフォンとテールライトの間付近に移設されている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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