キハ58 21



1961年6月14日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で名古屋第一機関区へ配置された。同一ロット19〜22全車が名古屋へ配置された。名古屋では中央西線の急行「しなの」等で活躍を開始した。しかし1963年には松本へ長大編成対応の400番台が一挙に投入されると松本配置の0番台の2次車〜4次車が名古屋へ転入し、玉突きで名古屋の1次車が転出することとなった。そのため1963年6月20日付で和歌山へ転属した。和歌山では急行「きのくに」等紀勢本線で活躍した。しかし和歌山へも長大編成対応の400番台車の増備が進むと捻出され、1964年10月17日付で水戸へ転属した。水戸では急行「ときわ」「奥久慈」「いわき」「つくばね」等で活躍したが、1967年2月に水戸線が電化され急行「つくばね」の電車化に伴い当車は捻出され、まず房総地区の夏季海水浴輸送で使用するため1967年度上期で勝浦へ転属し、夏季輸送終了後の9月度で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍したが、1969年よりキハ65が投入されると捻出され、6月25日付で鳥取へ移動した。鳥取では急行「白兎」「だいせん」「砂丘」「但馬」等で活躍し、1970年以降に冷房化されている。「47-3改正」では山陽新幹線岡山開業に伴い関西・山陰地区の系統整理、車両転配が行われ、当車は向日町へ転属した。向日町では急行「志摩」「はまゆう」「くまの」「しらはま」等、京都から紀伊半島方面へ向かう急行で長く使用された。しかし1982年5月17日の関西本線名古屋口電化による時刻修正で急行「はまゆう」の1往復が廃止となり余剰となり、1982年6月13日付で亀山へ転出した。亀山では関西本線・信楽線の普通列車でキハ55系に代わり使用されるようになったが、向日町時代に汚物処理装置を取り付けておりこれを活用する要請があったことから、1983年2月24日付で広島へ転属し、代わりに広島の汚物処理装置未取り付け車が亀山へ転属する動きがあった。広島では急行「ちどり」「たいしゃく」等芸備線・木次線の急行で使用された。しかし国鉄最後の「61-11改正」で急行「丹波」の廃止により向日町の状態の良いキハ58系が広島へ転入すると余剰となり、1987年2月2日付で廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない台枠付近へ移設され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送ジャンパ受栓はタイフォン横へ移設されているが、特殊な形状の台座を備えている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。
側面では、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。また汚物処理装置が取り付けられているのでその点検蓋が側面に設けられている。広島地区配置の特徴で、側面中央部窓下にサボ挿しが増設されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下はほぼ原形のままであるが、後位側に循環式汚物処理装置が取り付けられている。


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