キハ58 23


2004年頃

JR東日本の急行用アコモ改造車。当車は秋田配置で急行「よねしろ」運用で最後まで使用された。JRに継承されたキハ58では最若番であった。(但し、製造年月日が古いのは、秋田での僚友である54であった)

1961年6月20日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本運転所へ配置された仲間の1両。同一ロットでは23〜26が同日に松本へ配置されている。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月13日付で北海道夏季輸送として苗穂機関区へ転属し、夏季輸送の終了後の9月22日付で青森運転所へ転属する。青森では新規に設定された急行「陸中」を中心に活躍するが、青森へも長大編成対応車の増備により翌1964年5月16日には再び北海道夏季輸送として苗穂機関区へ転属し、夏季輸送終了後の1964年11月8日付で美濃太田機関区へ転出し、高山本線の急行で活躍するようになる。しかし美濃太田での活躍も長続きせず、翌1965年夏季は房総海水浴輸送として7月20日付で千葉へ転出する。海水浴臨終了後は9月27日付で高松運転所へ転出、四国での活躍を開始する。この四国生活はしばらく続くこととなる。途中1966年は再び房総海水浴臨に使用され、6月28日付で千葉へ転出し、8月25日には高松へ戻っている。次の転機は1970年で、7月4日付で三度目の房総海水浴臨に使用され、千葉へ転出。この際に貫通扉に千葉ヘッドマークステーが取り付けられた。海水浴臨が終了した9月2日には大分へ転出。活躍の場を豊肥本線・久大本線へ移すこととなった。この時点で、当車は北海道・本州・四国・九州を制覇したこととなった。その後大分で冷房化改造を施工しているものと思われるが、はっきりとした資料が残っていない。1971年度(日付不明)には大分から竹下気動車区へ移動し、活躍の場を長崎本線・筑豊地区へと移す。さらに1972年度(日付不明)には長崎機関区へ移動し、長崎本線系の急行列車に使用される。5年間居座った九州生活も長続きせず、新幹線博多開業に伴う急行再編で余剰対象となり、1975年3月13日付で遠く離れた小牛田機関区へ転出となる。小牛田では急行「きたかみ」「たざわ」等の東北本線系の幹線急行で使用されることとなった。しかしながら、小牛田には他に冷房車は配置されておらず、冷房を使用することはできなくなった。小牛田での活躍も長続きせず、1977年12月14日には一旦お隣の山形へ転出したのち、1978年6月4日には弘前機関区へ転出。花輪線・五能線ローカル急行を活躍の場とすることになった。弘前でも引き続き冷房の使用できない冷遇された扱いが続いたが、東北新幹線の開業した1982年11月ダイヤ改正では東北地区のローカル急行冷房化の波が押し寄せるようになり、当車も冷房車であることが買われ、急行「もがみ」「月山」用として山形機関区へ転出する。それまでは中期〜後期非冷房車が集まっていた山形に、一挙に2ケタ冷房車が集中し、当地区の冷房化に貢献することになった。しかしながらこれら東北急行もバス等の他交通機関との競争にさらされ減便・減車が続き、山形地区では車齢の高い冷房車は結局余剰が大量に発生することとなった。しかしながら秋田地区では1986年11月改正で急行「よねしろ」が復活することとなり、これに使用する車両として当車が抜擢され、1986年11月度に秋田運転区へ転出する。この秋田が、このあと生涯を全うする場となるのであった。秋田では前述のとおり急行「よねしろ」に主に使用され、この他にも普通列車で男鹿線・田沢湖線でも使用された。この「よねしろ」での活躍は20年以上続き、1991年にはアコモ改造と車両更新・機関更新を受け、最後は2006年7月5日付で秋田で廃車となった。実に45年もの活躍であった。

外観は、月山・よねしろ向け更新・アコモ改造仕様で、急行色のデザインながらJR東日本のコーポレートカラーを纏っていた。前述のとおり冷房化年月日は不明であるが、おそらく九州時代であると思われる。(なぜなら、東北移動後、非冷房車しかいなかった小牛田や弘前で冷房化が行われる理由に乏しいので)
前面は、1993年12月10日付で土崎工場で前面補強されており、23番がそれまで持っていた流転の人生の記録を全て消してしまった。また、正面貫通ドアは更新時に交換されており、この際に千葉時代のヘッドマークステーも失われている。カバーのないスリットタイフォンカバーが、東北生え抜きではない唯一の証拠であろうか。
側面では、全てのドアが交換されており、客用ドアは窓が金属押さえでかつ下部隅に丸窓もなく、タブレット保護柵用の凹みもない更新車用のものになっている。また2000年頃以降に乗降ドアノブが撤去されており、異彩を放っていた。乗務員室ドアも、ドアノブが凹みの中に入った、モデルチェンジ車類似品になっており、またドア下部に掴み手が追加されている。ドアの靴摺り部は、他の更新車同様ステンレスに交換されている。戸袋部の客用ドア点検蓋は、他の更新車同様、キハ40系のようなタイプに変更されている。車体中央付近にあった機関冷却水口は、他の機関更新車同様埋められている。バランサー点検蓋は、原形の通り側面にはない。また、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。アコモ改造時に、行先方向幕が2・3位側の窓上に追設され、当グループ唯一の特徴である。方向幕設置後も、側面のサボ差しは引き続き残置されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態であるが、後位側水タンクキセは東北地区に多いリブの少ないものになっている。列車無線アンテナ後部に、衛星電話用のアンテナが取り付けられている。(花輪線運用車共通)
床下では、エンジンがコマツ製DMF11HZへ交換済み、その際に機関予熱器は撤去されている。油タンクは角型のものへ交換済み。スノープロウは複線用を取り付けている。便所側は汚物処理タンクを装備しているが、取付時期が新しい(恐らく更新時)のでキハ48等にも見られる角ばったものが取り付けられている。
更新により特に正面の特徴が失われたのは残念であるが、JR継承最若番としては長寿を全うした当車は貴重な存在であった。


なお当車は1985年・1990年・1993年・1997年頃の姿もご紹介する。



1985年頃

前面は、この時点では前面補強未施工である。ワイパーはWP50に既に更新されているものの運転席窓下の手すりは原形のままである。タイフォンは東北で活躍していたにもかかわらずスリットカバーのままであった。助手席側の足掛けは1次車の特徴を残し、タイフォン上部付近にある。またその斜め下にも足掛けがあり、これは四国時代のKE66栓納め台座と一体足掛けの名残の可能性がある。そして最大の特徴は貫通ドアに千葉時代のヘッドマークステイが残っていることで、キハ58形では非常に珍しくJR化後では敦賀の237番と2両のみであった。
側面はこの時点ではほぼ原形のままである。秋田局に配置された車は汚物処理装置取り付けもしくはその準備工事を施工した車が多く便所側面に点検蓋が設置された車が多かったが、当車は更新までは点検蓋が設置されていなかった。運転席側面下部には、四国時代の点検蓋が設置されている。
屋根上は冷房車の標準形態であるが、この時点で既に水タンクはビードの少ない形状のものになっている。
床下もほぼ原形のままである。




1990年頃
こちらはJR化後の姿である。1985年とあまり差が無いが、JRマークや列車無線アンテナが付いたこと、側面には中央付近のサボ受けやドア付近の禁煙表示などが追加されていることが主な変化である。




1993年頃
急行よねしろ用のアコモ改造・車両更新を受け大幅に姿を変え別物のようになってしまった。最大の特徴であった正面貫通扉の千葉ヘッドマークステイはドア交換によって失われたものの、この時点では1次車特有のタイフォン上部にある足掛けが残っていた。



1997年頃
1993年末に前面補強が施工され、23番らしい唯一の痕跡であったタイフォン上の足掛けも無くなり、過去を偲ぶものは殆ど無くなってしまった。1993年時点と比べ前面補強が施工され、特にタイフォン周りで段差が見られたほか、四国時代の運転席側面下部の点検蓋が無くなっている。その他直通予備ブレーキが整備され車端部にコネクタが増設され賑やかになり、屋根上には衛星アンテナが設置されている。



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