キハ58 27



1961年6月30日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット27〜30全車が松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月16日付で青森へ転属した。青森での活躍は長くなく、1963年度中に郡山へ転属している。郡山では急行「いいで」「いなわしろ」等、東北本線南部の急行で活躍した。しかし1964年度中には郡山への長大編成対応車の増備により捻出され、同年度中に盛岡へ転属した。しかし盛岡でも車輛増備により早々に転属することになり、まず北海道の夏季輸送で使用するため1965年4月25日付で苗穂へ転属し、夏季輸送終了後の10月11日付で和歌山へ転属した。和歌山では急行「きのくに」を中心に紀伊半島で活躍した。しかし「47-3改正」で「きのくに」1往復が「くろしお」に格上げされたこととキハ65の増備により捻出され、福知山へ転属した。福知山では急行「丹波」「丹後」「但馬」「だいせん」等で活躍したが、1972年度には福知山区の急行型配置が増えたため一部を豊岡へ移管することになり、同年度中に豊岡へ転出した。豊岡でも引き続き急行「丹波」「丹後」「但馬」「だいせん」で活躍し、1970年代には冷房化された。その後も国鉄末期まで長く活躍したが、「60-3改正」で急行「きのくに」の特急「くろしお」への格上げにより和歌山機関区から状態の良いキハ58系が大量に福知山地区へ転入すると当車は余剰となり、1985年7月9日付で廃車となった。

前面は、福知山時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時に後藤工場標準の、助手席側はタイフォン横、運転席側は台枠付近赤帯の中へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区では珍しく、関西地区標準の、タイフォンとテールライトの間付近へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーのままである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり特筆すべき点はない。
床下もほぼ原形のままである。


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