キハ58 29



1961年6月30日日本車輌製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット27〜30全車が松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月29日付で新潟へ転属した。新潟では急行「きたぐに」「赤倉」等で活躍したが長くなく、同区への長大編成対応車の増備により1963年12月20日付で長崎へ転属した。長崎では主に長崎本線系統の急行で使用されたが、需給の関係で1964年10月8日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で活躍した。高松ではキハ65の増備に伴いキハ58若番車の転出が相次いだが当車はそのまま四国に残留し、1972年までに冷房化改造されている。高松運転所では特急型の配置に伴い配置両数が飽和してきたため、1972年度中で高徳本線系統の急行を徳島へ分離することになり、主に若番車が徳島へ移動し当車も徳島へ転属した。以後は高徳本線系統の急行「阿波・むろと」や「よしの川」で使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月11日付で七尾へ転出し、当区に配置されていた非冷房キハ58と入れ替わり、七尾線の急行「能登路」で使用されるようになった。七尾には各地から比較的車齢の高い初期車が集められたが、国鉄最後の「61-11改正」時に、廃止が決まっていた越美南線を運用していた美濃太田機関区との間で車両交換が行われ、美濃太田から後期車が七尾へ転出し、当車は1986年10月26日付で美濃太田へ転出した。その後予定通り1986年12月10日越美南線の廃止で余剰となり、JRに継承されること無く、1987年2月9日付で廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。タイフォンカバーはスリット状であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、当車は冷房化も左右ともタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。
側面はほぼ原形のままであるが、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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