キハ58 35


1980年頃

1961年7月21日新潟鉄工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で竹下気動車区へ配置された。同一ロット35・36のうち、当車のみが竹下へ配置された。九州ではキハ55系に代わり鹿児島本線・長崎本線の準急・急行に使用された。1970年2月度に竹下にキハ65が新製投入された関係で捻出され、1970年3月4日付で福知山機関区へ転出し同区のキハ55系を置き換え急行に使用されるようになった。1972年には福知山区の急行運用の一部が豊岡に移管され、同車も豊岡へ移動した。豊岡では福知山近郊の急行「丹波」「丹後」「但馬」で使用され、1970年代中盤には冷房化された。国鉄末期まで豊岡で活躍し、「60-3改正」では急行「きのくに」の廃止により和歌山から状態の良いキハ58が転入した際も生き残り、また「61‐11改正」で福知山線電化により急行「丹波」が廃止された際も生き残り、若番車ながらJR西日本へ継承された。JR化後も引き続き豊岡で急行「丹後」「但馬」に使用されたが、1990年3月の山陰本線園部電化の際に福知山で余剰車が発生し、これに伴う転配を受け当車は客車列車の気動車化のため1990年3月8日付で米子へ転出した。米子では主に快速や普通列車で使用されたが、普通列車のワンマン化・短編成化が進み余剰となり、1993年12月10日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーは原形のWP35のままであり、運転席窓下の手すりも原形のままである。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ栓納めはタイフォン横に台座付きで設置されている。タイフォンカバーはスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はおおむね原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下も、ほぼ原形である。

なお続いてJR化後の姿もご紹介する。




1990年頃

前面は、後藤工場で前面補強されている。前面は、福知山時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。1-1次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時に後藤工場標準の、助手席側はタイフォン横、運転席側は台枠付近赤帯の中へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区特徴の、タイフォンの上部付近へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はおおむね原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下も、ほぼ原形である。


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