キハ58 36



1961年7月21日新潟鉄工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で広島機関区へ配置された。同一ロット35・36のうち、当車のみが広島へ配置された。広島では山陽本線の急行で活躍開始したが、1962年上期には新製されたキハ28と交代し、1962年3月21日付で勾配路線を擁する高松へ転出した。高松では四国全域の急行で使用され、1969年度には冷房化された。その後も長く四国全域で使用されたが、高松運転所では特急型の配置に伴い配置両数が飽和してきたため、高徳本線系統の急行を徳島へ分離することになり、主に若番車が徳島へ移動する。当車は1972年度中に徳島へ転属した。以後は高徳本線系統の急行「阿波・むろと」や「よしの川」で使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月11日付で七尾へ転出し、当区に配置されていた非冷房キハ58と入れ替わり、七尾線の急行「能登路」で使用されるようになった。七尾では長く活躍し、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は、1988年に能登線が廃止された関係で余剰となり、山陰本線京都口の50系客車列車の気動車化のため1988年9月10日付で福知山へ転出した。福知山では山陰本線の他、舞鶴線・宮津線等で使用されたが、1990年には山陰本線園部電化及び宮津線の廃止により捻出され、当車は客車列車の気動車化のため1990年3月1日付で米子へ転出した。米子では主に快速や普通列車で使用されたが、普通列車のワンマン化・短編成化が進み余剰となり、1992年3月31日付で廃車となった。

兄弟の35とは同一ロットで、最末期は同じ米子に集まったが、経歴の違いから形態は全く異なっていた。
前面は、七尾時代に松任工場で前面補強されているが、補強板の縁が滑らかに仕上げられており目立たない。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。制御ジャンパ受栓及び運転席側ステップの位置は、多度津工場標準の位置にある。助手席側ステップは、1-2次車までの特徴である、タイフォン上部のままである。放送用ジャンパ受栓は、当初四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーはスリット状であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。また当車は国鉄末期の七尾時代に正面窓上の水切りが撤去されている。
側面はおおむね原形である。七尾時代に乗降ドア下部に丸窓があるので、恐らく米子時代も存在していたものと思われる。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。屋根上水タンクは換装されている可能性があるがこれが確認できる資料が無いので不明である。
床下も、ほぼ原形である。


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