キハ58 39



1961年9月11日新潟鉄工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で広島機関区へ配置された。同一ロット39〜42のうち、当車のみ広島へ配置された。広島では山陽本線から九州へ向かう急行「べっぷ」等で活躍開始したが、山陽本線準急の受け持ち変更等の理由で1962年12月29日付で小郡へ転属した。小郡では準急「あきよし」「周防」等で活躍した。しかし1965年3月のダイヤ改正で準急「周防」の1往復が電車化されたこともあり、1965年10月14日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」を中心に活躍した。そして1968年には転入若番組は新製車と入れ替わるように他区へ転出することになり、まず1968年5月度に北海道夏季輸送用に苗穂機関区へ転出し、夏季輸送終了後の9月7日付で高松運転所へ転出した。高松では四国全域の急行で使用された。しかしキハ65の増備により非冷房のままの当車は転出することになり、1972年3月1日付で福知山へ転属した。福知山では急行「丹波」「丹後」「但馬」「だいせん」等で活躍したが、1972年度には福知山区の急行型配置が増えたため一部を豊岡へ移管することになり、同年度中に豊岡へ転出した。豊岡でも引き続き急行「丹波」「丹後」「但馬」「だいせん」で活躍し、1970年代には冷房化された。その後も国鉄末期まで長く活躍したが、「61-11改正」で福知山線電化により福知山周辺の急行が整理された際に余剰となり、1987年2月6日付で廃車となった。

前面は、福知山時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは前述の通り後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時に後藤工場標準の、助手席側はタイフォン横、運転席側は台枠付近赤帯の中へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり特筆すべき点はない。
床下もほぼ原形のままである。


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