キハ58 41



1961年9月11日新潟鉄工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で竹下気動車区へ配置された。同一ロット39〜42のうち、40〜42が竹下へ配置された。竹下では主に北九州の急行・準急で使用開始されたが、1962年10月のダイヤ改正に伴う急行増発で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「ひまわり」「由布」「火の山」等で活躍した。一時期1964年度中に運用の都合及び需給の関係で直方へ転属したが、翌1965年度には大分に戻っている。その後1970年には大分へのキハ65投入により捻出され、1970年2月24日付で鳥取へ転属した。鳥取では急行「白兎」「だいせん」「砂丘」「但馬」等で活躍し、1970年以降に冷房化されている。「47-3改正」では山陽新幹線岡山開業に伴い関西・山陰地区の系統整理、車両転配が行われ、当車は向日町へ転属した。向日町では急行「志摩」「はまゆう」「くまの」「しらはま」等、京都から紀伊半島方面へ向かう急行で長く使用された。しかし1982年5月17日の関西本線名古屋口電化による時刻修正で急行「はまゆう」の1往復が廃止となり余剰となり、1982年6月13日付で亀山へ転出した。亀山では関西本線・信楽線の普通列車でキハ55系に代わり使用されるようになったが、向日町時代に汚物処理装置を取り付けておりこれを活用する要請があったことから、1983年2月24日付で広島へ転属し、代わりに広島の汚物処理装置未取り付け車が亀山へ転属する動きがあった。広島では急行「ちどり」「たいしゃく」等芸備線・木次線の急行で使用された。しかし国鉄最後の「61-11改正」で急行「丹波」の廃止により向日町の状態の良いキハ58系が広島へ転入すると余剰となり、1987年2月2日付で廃車となった。

イラストは1982年時点のもである。
前面は、高砂工場で前面補強されている。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。タイフォンカバーは原形のスリット状のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが前面補強時に通常のタイフォン横に移設されている。放送ジャンパ栓納めは関西地区に良く見られるタイフォンと尾灯の間付近に移設されている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置に移設されている。尾灯は外ばめ式に改造されている。当車はKE67ジャンパ栓納めが連結器真下から、胴受端付近に移設されている。
側面では、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。また汚物処理装置が取り付けられているのでその点検蓋が側面に設けられている。広島地区配置の特徴で、側面中央部窓下にサボ挿しが増設されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下はほぼ原形のままであるが、後位側に循環式汚物処理装置が取り付けられている。


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