キハ58 42



1961年9月11日新潟鉄工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で竹下気動車区へ配置された。同一ロット39〜42のうち、40〜42が竹下へ配置された。竹下では主に北九州の急行・準急で使用開始されたが、1962年10月のダイヤ改正に伴う急行増発で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「ひまわり」「由布」「火の山」等で活躍した。しかし大分への長大編成対応車の増備により捻出され、1964年9月29日付で徳島へ転属した。徳島では高徳本線の準急に使用されたが、キハ58系は高松へ集約する方針から同年度中には高松へ転属している。高松では四国全域の急行で使用された。そして四国では末期の1972年度中に冷房化されている。高松運転所では特急型の配置に伴い配置両数が飽和してきたため、1972年度中で高徳本線系統の急行を徳島へ分離することになり、主に若番車が徳島へ移動し当車も徳島へ転属した。以後は高徳本線系統の急行「阿波・むろと」や「よしの川」で使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月11日付で七尾へ転出し、当区に配置されていた非冷房キハ58と入れ替わり、七尾線の急行「能登路」で使用されるようになった。七尾には各地から比較的車齢の高い初期車が集められたが、国鉄最後の「61-11改正」時に、廃止が決まっていた越美南線を運用していた美濃太田機関区との間で車両交換が行われ、美濃太田から後期車が七尾へ転出し、当車は1986年10月28日付で美濃太田へ転出した。その後予定通り1986年12月10日越美南線の廃止で余剰となり、JRに継承されること無く、1987年2月9日付で廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。タイフォンカバーはスリット状であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。正面窓上の水切りは、国鉄末期金沢局時代に撤去されている。
側面はほぼ原形のままであるが、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。後位側の水タンクは新潟・金沢局に良く見られる扁平のものになっている。
床下もほぼ原形のままである。


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