キハ58 49


1985年頃の姿

1961年9月16日東急車両製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で米子機関区へ配置された。同一ロット46〜49全車が米子へ配置された。米子では急行「だいせん」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍した。1962年度には大阪発着の福知山線・山陰本線系統の急行の一部を宮原へ移管し、当車も宮原へ転属した。宮原では福知山線の急行「丹波」の他、急行「越前(後の急行きたぐに→越後)」等で使用された。1963年には宮原への長大編成対応車の増備により捻出され、同年度中に直方へ転属した。直方では800番台車やキハ55に混じり準急「日田」「はんだ」「あさぎり」等で活躍した。1964年度には需給の関係で竹下へ転属した。竹下では長崎本線の急行の他九州北部の急行で使用されたが、以降ダイヤ改正毎に運用改正で各地を転々とし、1965年度中に大分へ、1968年度中に熊本へ、1970年度中に鹿児島へ、1971年度中に竹下へ転属した。この時点でもまだ非冷房のままであり、冷房化の急速に進んだ九州では非冷房車は次第に活躍の場を失い、最後はキハ58+58で運用された急行「平戸」用に1972年度に長崎へ転属した。その後は前述の通り急行「平戸」で活躍したが、山陽新幹線博多開業に伴う「50-3改正」で急行の整理・削減が行われた際に急行「平戸」も冷房化され、非冷房の当車は1975年3月14日付で新潟へ転属した。新潟では主に急行「赤倉」「いいで」「羽越」「べにばな」等で活躍したほか、キハ55に混じり普通列車でも使用された。その後「55-10改正」で各地で急行の削減が行われるとキハ58冷房車が大量に新潟へ転入し、当車は玉突きで1981年1月24日付で竹下へ転属した。一旦完全冷房化を達成した九州へ再度出戻りであったが、非冷房の当車はキハ55系置き換え用で主に博多近郊の普通列車で使用された。しかし国鉄末期には急行の減車等により冷房車が普通列車にも使用されるようになり、また地方交通線の廃止も進んだことから余剰となり、1987年3月30日付で廃車となった。

前面は、前面補強されていない。ワイパーは原形のWP35のままであり、正面窓下の手すりも原形のままである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、後に2次車以降に準じタイフォン横へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。タイフォンカバーは、スリット状ながら九州特有の形態のものを装備している。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面では、新潟地区特有の乗務員室窓バランサー点検蓋が取り付けられている。その他はほぼ原形である。
屋根上は水タンクが新潟及び1980年代前半の金沢標準の平らなものに交換されており、九州では異彩を放っている。
床下はほぼ原形のままである。


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