キハ58 50


1984年頃の姿

1961年9月20日東急車両製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で米子機関区へ配置された。同一ロット50〜53のうち、50・51が米子へ配置された。米子では急行「だいせん」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍した。1962年度には大阪発着の福知山線・山陰本線系統の急行の一部を宮原へ移管し、当車も宮原へ転属した。宮原では福知山線の急行「丹波」の他、急行「越前(後の急行きたぐに→越後)」等で使用された。1963年には宮原への長大編成対応車の増備により捻出され、同年度中に和歌山へ転属した。和歌山では急行「きのくに」等紀勢本線で活躍した。しかし和歌山へも長大編成対応の400番台車の増備が進むと捻出され、1964年12月21日付で高崎へ転属した。高崎では急行「草津」「わたらせ」の増強用に使用された。しかし1967年に長野原線が電化されると同急行も電車化され捻出され、まずは房総地区の夏季海水浴輸送に使用するため1967年7月1日付で館山へ転属し、夏季輸送終了後の8月30日付で米子へ転属した。米子では急行「だいせん」の他、山陰本線の急行を中心に活躍した。1969年度には需給の関係で隣の鳥取へ移動し、引き続き山陰本線の急行で使用された。1972年には伯備線にキハ181系特急「やくも」が新設された関係で米子局管内で車両の捻出が行われ、当車はキハ55系の置き換えで福知山機関区へ転出した。福知山では急行「丹後」「丹波」「但馬」など、福知山を中心とする急行列車で長く活躍し、1970年代中盤に冷房化された。しかし「60-3改正」で急行「きのくに」の特急「くろしお」への格上げにより和歌山機関区から状態の良いキハ58系が大量に福知山地区へ転入すると当車は余剰となり、1985年8月26日付で廃車となった。

前面は、福知山時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままであるが、正面窓下の手すりがワイパー更新車に準じ短いものに交換されているのは後藤工場の特徴である。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側は後藤工場標準の、車体裾部赤帯の中へ移設されている。放送用ジャンパ受栓は、タイフォン横ステップ下部に設置されている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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