キハ58 53


1986年頃の姿

1961年9月20日東急車両製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で広島機関区へ配置された。同一ロット50〜53のうち、52・53が広島へ配置された。広島では主に山陽本線の急行「べっぷ」「山陽」等で使用されたが、1964年の山陽本線全線電化により急行の大幅改変がなされ、1964年年度中に小郡へ転属した。小郡では準急「あきよし」「周防」等で活躍した。しかし1965年3月のダイヤ改正で準急「周防」の1往復が電車化されたこともあり、1965年10月14日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」を中心に活躍した。「ヨンサントオ改正」では日豊本線・鹿児島本線系統急行の電車化もあり運用が減少し、当車は急行「えびの」のキハ58系化促進のため同年度中に熊本へ転属した。熊本では前述の通り主に急行「えびの」で使用されたが、1970年10月の改正では運用の一部を都城へ移管し、当車も都城へ転属している。都城では主に急行「えびの」の他間合いで他急行にも使用された。そして都城時代に冷房化改造されている。「47-3改正」では需給の関係で鹿児島へ転属し、急行「青島」「日南」「錦江」等九州南部の急行で活躍した。山陽新幹線博多開業に伴う「50-3改正」では急行「青島」が廃止され当車は捻出され、1975年3月6日付で豊岡へ転属した。豊岡ではキハ55系に代わり急行「丹波」「但馬」「丹後」「だいせん」で使用された。その後も国鉄末期まで長く活躍したが、「61-11改正」で福知山線電化により福知山周辺の急行が整理された際に余剰となり、1987年2月6日付で廃車となった。

前面は、豊岡時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは前述の通り後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時に後藤工場標準の、助手席側はタイフォン横、運転席側は台枠付近赤帯の中へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区特徴の、タイフォンの上部付近へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形のままである。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり特筆すべき点はない。
床下もほぼ原形のままである。


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