キハ58 55



1961年5月30日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット54〜56のうち、55・56が松本へ配置されている。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため一旦中部山岳の夏季輸送用に1963年7月8日付で新潟へ転属し、夏季輸送終了後の8月26日付で高松へ転属した。高松では四国全域の急行で使用された。そして四国では末期の1972年度中に冷房化されている。高松運転所では特急型の配置に伴い配置両数が飽和してきたため、1972年度中で高徳本線系統の急行を徳島へ分離することになり、主に若番車が徳島へ移動し当車も徳島へ転属した。以後は高徳本線系統の急行「阿波・むろと」や「よしの川」で使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月11日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」で活躍した。しかし大分での活躍は長くなく、「55-10改正」で九州内の急行が大幅に整理された際に余剰となり、東北地区の冷房化のため1981年3月19日付で山形機関区へ転出した。山形では「月山」「べにばな」「もがみ」等で使用され、「57-11改正」後はキハ28の冷房車も転入したため、本格的に急行の冷房化に貢献した。しかし国鉄最後の「61-11改正」で急行「もがみ」が廃止されると余剰となり、1987年2月10日付で廃車となった。

イラストは1980年頃の大分時代のものである。
前面は、前面補強が施工されておらず、ワイパーはWP35のままですっきりした顔立ちである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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