キハ58 57 → キハ58 8002



1961年6月10日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット57・58両車とも松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。1963年には中部山岳の夏季輸送で一旦新潟へ転出し、その後1963年8月28日付で高松運転所へ転出した。高松では長く使用され、四国全域の急行列車で活躍した。尚、1966年には夏季輸送対応で千葉へ応援に行き、また1972年頃には冷房化された。1973年には高松に特急用キハ181系が投入された関係で高徳本線急行は徳島へ移管されることになり、主に若番車が集められ当車も徳島へ転出した。以降は徳島をベースに急行に使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月13日付で兄弟の58とともに熊本へ転出し、急行「えびの」増強で使用されるようになった。熊本は生え抜きの後期車が主で、若番車は異端車であった。1980年以降も各地から若番車が熊本には転入し、キハ55に代わり豊肥本線の普通列車でも使用されるようになる。しかしながら国鉄末期には、急行「えびの」の運転区間短縮及び編成短縮、また普通列車にはキハ31の投入により後に転入した若番車は軒並み廃車されたが、当車は幸運にも生き残りJR九州へ継承された。JR化後は早くも1988年には各地で車両交換が行われ当車はジョイフルトレインの種車として使用される事となり、1988年6月21日付で直方気動車区へ転出し、そして10月28日付で「ふれあいGO」に改造され「キハ58 8002」と改番された。なおこの「8002」は営業を行うキハ58で最もインフレナンバーであった。改造後は北九州のみならず九州〜西日本各地で団体列車として活躍したが、ジョイフルトレインを取り巻く環境の変化に伴いJR九州では全列車の営業を止めることとなり、当車も1994年12月19日付で廃車となった。

前面は、前面補強されておらず、平凡な表情。ワイパーも原型のWP35である。ふれあいGOへ改造された際、正面の手すり類、幌枠は撤去された。タイフォンカバーは原型のスリットカバーで、九州では少ないタイプである。放送用ジャンパ線受は、四国タイプの形態であるステップ一体型を装備しており、当車が徳島転入車であることを物語っている。また制御用ジャンパ線の受栓も多度津工場標準の位置にある。
側面は、大幅な改造がなされており、前位側の乗降ドア1枚と全戸袋窓が埋められ、また側窓も独特のユニット窓に改造されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態で、塗装以外特筆すべき点は無い。
床下は、後年半欠けスカートが取り付けられた以外はほぼ原型である。
車端部は、デッキの窓が埋められている。


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